いま聞きたいQ&A

「年収の壁」は、一部を単体で引き上げても意味はない?

税金や社会保険料の負担が増えないように、人々が働く時間を制限してしまう「年収の壁」問題。収入基準の引き上げから引き下げ、撤廃まで、さまざまな意見が飛び交っています。複数の壁をあわせて議論する必要があるほか、働き控えにつながる制度自体の妥当性を問い直すなど、より多角的な視点から検討が求められます。

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Q.政府が「年収103万円の壁」を引き上げようとしているのはなぜですか?

年収の壁はいくつか存在し、そのうち所得税に関係するのが「103万円の壁」です。所得税の計算では、まず給料などの収入から経費相当分の「給与所得控除」を差し引き、そこからさらに各種の「所得控除」を差し引いて課税対象金額を算出します。各種の所得控除には、納税者全員が対象の「基礎控除」、配偶者を扶養する世帯主が対象の「配偶者控除」、16歳以上の子を扶養する世帯主が対象の「扶養控除」などがあります。

給与所得控除は年収が162万5000円以下では一律55万円となっており、基礎控除は所得金額が2500万円以下の場合、通常48万円です。パートやアルバイトで働く人の年収が103万円以下だと、「55万円+48万円=103万円」の控除が受けられるので所得税が課税されませんが、103万円を超えると課税が発生します。

また、例えば親に扶養されている20歳の大学生がアルバイトで年収103万円を超えた場合、世帯主の父親は19~22歳の子を対象にした特定扶養控除(所得税63万円、住民税45万円)を受けられなくなります。父親の所得税率が10%ならば所得税「63万円×0.1=6万3000円」、住民税「45万円×0.1=4万5000円」がそれぞれ新たに発生し、合計10万8000円の負担増につながります。

このように、(1)パートやアルバイト収入に課税されることで本人の手取りが以前より減る(2)税制上の扶養から外れることで世帯の手取りが以前より減る――という2つの観点から103万円の壁が意識され、就労を手控える人が多いと言われているのです。この問題は2025年度の税制改正における大きな焦点となっており、国民民主党が非課税枠を178万円まで引き上げるよう政府に強く求めています。

国民民主党が引き上げ額の根拠としているのは、最低賃金の上昇です。米国をはじめ海外の主要国では、所得税の課税最低限の年収基準などをインフレ率に連動して動かすのが一般的です。日本では1995年から現在の103万円に固定されたままで、その間、最低賃金は全国加重平均で約1.73倍となりました。これに準じて非課税枠を73%引き上げると178万円になるというわけです。

配偶者控除という制度の妥当性を疑問視する声も

103万円の壁については思い込みや誤解も多いようです。東京大学の近藤絢子教授や学習院大学の深井太洋准教授が、配偶者のいる女性を対象に給与収入分布を調べた研究では、年収103万円を境に働く層が極端に少なくなることが分かっています。しかし、パートで働く主婦の年収が103万円から1万円増えたところで所得税は数百円であり、収入の大半は手取り増につながります。

2018年の税制改正によって、世帯主は配偶者の年収が150万円になるまで「配偶者特別控除」を受けられるようになり、世帯主の配偶者控除に対する影響も緩和されています。既婚女性のパートタイマーについては、「103万円を超えたら働き損」と誤解している人が多いのかもしれません。

一方で、社会保険に関係する「106万円の壁」や「130万円の壁」は、それらに達すると手取りが以前より大きく減る可能性があります。従業員51人以上の企業で週20時間以上働くパート労働者は、年収106万円に達した時点で社会保険に加入しなければなりません。それまで夫の扶養だったパート主婦の場合、厚生年金保険料と健康保険料の合計で新たに年15万円程度の負担が生じます。加入前よりも手取りを増やすためには、年収が約125万円になるまで働く必要があります。

同様に年収130万円に達すると、企業規模に関係なくパート労働者には社会保険への加入が義務付けられます。たとえ所得税の課税最低ラインを103万円から引き上げても、106万円や130万円を意識して就労を制限する人が多いと考えられるため、「これら複数の壁をあわせて議論しなければ意味がない」といった見方もあります。

共働き世帯が一般的になった今日において、そもそも配偶者控除という制度が妥当なのか疑問視する声も上がっています。専門家のなかには、逆に「壁をもっと引き下げるべき」と主張する人もいるほか、「扶養家族であることにインセンティブを与えている現在の税制自体が、女性の長期的な働き方を狭めている」という厳しい指摘もあります。

実際に厚生労働省では、106万円という社会保険に関する収入基準を撤廃する方向で動いています。これについては賛否両論があるものの、日本の最低賃金が上昇するなか、すでに106万円の壁は一部で形骸化しているのが現実とも言えます。

大ざっぱな計算ですが、例えば週に20時間ずつ年間52週働いて、年収を106万円未満に収めるための時給は1019円です(20時間×52週×1019円=105万9760円)。2024年度の最低賃金の全国平均は1055円で、すでにこれを上回っているのです。

社会保険の保険料は、将来的に厚生年金を受給できる額の増加につながります。現状で壁の手前の年収105万円で働いているパート主婦が年収を120万円まで増やした場合、収入増と保険料の差し引きで手取りは3万円程度の減少で済み、65歳で厚生年金をもらい始めれば約5年で保険料を取り戻せます。年収を125万円まで増やせば手取りは減少せず、将来の年金増だけが残ります。

こうした実態や効果も含めて国民にいまいちど、制度全体の周知を図ることが肝要なのではないでしょうか。少なくとも103万円の壁だけを単体で引き上げて、「皆さんの手取りを増やしました」と手柄のように言い立てても、さして意味はないように思われます。(チームENGINE 代表・小島淳)

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