人材の潜在能力を引き出す、新しい企業経営のあり方
企業の競争力の源泉が、有形資産から無形資産にシフトしつつあります。そんななか、「ウェルビーイング経営」や「人的資本経営」など、社員一人ひとりの潜在能力を引き出す経営に注力する企業が増えています。多様な人材が能力を発揮できる環境を整備することが、企業価値を高めるうえで大きなカギを握るからです。
Q.「ウェルビーイング経営」が注目されているのはなぜですか?
「ウェルビーイング(well-being)」とは一般に、人間が身体的・精神的・社会的に良好で満ち足りた状態にあることを指します。世界保健機関(WHO)が第2次大戦後に広めた概念ですが、従来はあくまでも個人や社会のありようを示す用語として使われ、企業経営との結びつきは希薄でした。
最近になって企業がこの概念に関心を寄せ始めたのは、経営環境の劇的な変化が影響しています。産業構造が労働集約型から知的創造型へとシフトするのに伴い、企業の競争力の源泉も工場や店舗などの有形資産から、創造的なアイデアや革新的なビジネスモデルといった無形資産へと重点が移ってきました。無形資産を生み出すのは個の力であり、社員一人ひとりの潜在能力を引き出す方法として、企業がウェルビーイングに目を向けているのです。
興味深いのは社員の「幸福感」という、一見すると非常に抽象的な概念がクローズアップされている点です。例えば三井住友トラスト・ホールディングスでは、ウェルビーイング経営を以下のように定義しています。
『社員が心身ともに健康であることを前提に、会社のパーパス(存在意義)に共感し、自分の価値や強みを生かして働く幸せを実感し、追求していける状態』
米国で行われた研究によると、幸福度の高い社員は低い社員に比べて創造性が3倍、生産性が31%、売り上げが37%それぞれ高くなっていました。一方で欠勤率は41%、離職率は59%それぞれ低く、業務上の事故は70%少なくなっていました。
これは、幸福度の高い社員ほど仕事のパフォーマンスが優れていて、職務遂行へのモチベーションも高いことを示しています。世界中で同様の研究成果が次々と明らかになり、現代におけるウェルビーイング経営の合理性が、統計学的にも証明された格好といえます。
人々の幸福度を測る方法はアンケ-ト調査が主流ですが、ほかにも笑顔計測やネットワーク分析など、さまざまなアプローチが試みられています。将来的には脳波などのバイタルデータ(人体から取得できる生体情報)を基に計測する方法が実用化され、より客観的に幸福度を割り出すことが期待されています。
どのような施策が社員のウェルビーイングを高めるのか、という点にも注目が集まります。一部の企業では出社不要の働き方を導入したり、社員向けのパーパス・ワークショップを開くなど、私生活の充実や人生観にも寄り添った人事戦略を進めています。これら先進企業の実績を踏まえて、今後はウェルビーイング経営がいっそう洗練されていくことになりそうです。
「人材=投資によって価値を高める対象」と考える
企業の人材については従来、経営資源のひとつとして消費・管理するものであり、その維持にはコスト(人件費)がかかるという考え方が一般的でした。だからこそ、利益の増大を図るにあたっては人件費をなるべく低く抑えようという発想になりやすかったわけです。
人的資本経営では、社員のスキルや知識、やる気などを企業の資本として認識します。人材をコストの対象ではなく、むしろ投資によって価値を高めていく対象と考えるわけです。経済産業省では、人的資本経営を以下のように定義しています。
――人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方――
ここ数年で人的資本経営が注目されるようになったのは、ウェルビーイング経営と同様に、産業構造の変化と無形資産の重要性が関係しています。なおかつ、そこに投資家の視点が要素として加わっている点も大きな特徴といえるでしょう。
生命保険協会の「企業価値向上に向けた取り組みに関するアンケート(2021年度版)」によると、中長期的な投資・財務戦略の重要項目として「人材投資」を挙げる投資家が57.9%に達していた一方、企業では31.1%にとどまっていました。すでに投資家が人材という無形資産の価値を重く評価しているのに対して、日本企業の間では依然として有形資産を重視する傾向が強いことが見てとれます。
欧米を中心に世界で人的資本に関する情報開示のルール整備が進むなか、日本でも21年にコーポレートガバナンス・コードが改訂され、人的資本に関する開示内容が追加されました。23年3月期決算の有価証券報告書からは、日本の上場企業に人材育成方針や社内環境整備方針などの情報開示が義務付けられるようになります。
ただし、一口に人的資本といっても包含する内容が多いため、何をどのように開示すればいいのか戸惑う企業も多いようです。賃上げやリスキリング(学び直し)、ダイバーシティー(多様な人材登用)といった組織としての取り組みに加えて、社員の仕事への熱意を示す「エンゲージメント」を数値化して公表するなど、人材の内面にフォーカスした情報開示もアピールポイントのひとつとなりそうです。
人的資本に関する情報は、個人が就職先や転職先を考える際の指針にもなり得ます。どのようなデータをどのような切り口で伝えれば、資本市場や労働市場で評価されるのか――。ウェルビーイング経営ともリンクさせながら、企業にはこれから本気で考えていくことが求められます。