いま注目すべき「地政学リスク」について教えてください。
異質で深刻な複数のリスクが併存している
地政学リスクとは、特定の地域で紛争やテロなど政治的・軍事的な緊張が高まり、その影響から世界的に経済の先行きが不透明になるリスクのことです。FRB(米連邦準備理事会)が2002年9月の声明で初めて使ったのを機に、この言葉が一般化しました。ちなみに「地政学」はスウェーデンの政治学者が19世紀末に考案したとされる学問で、地理的な環境が国家や国際関係に与える影響を分析・研究するものです。
もう少し広い概念のリスクを示すものとして「カントリーリスク」という言葉もあります。これは特定の国や地域で政治・社会情勢や国際収支、財政などの経済状況が変化することにより、投資家が予期せぬ損失を被るリスクのこと。厳密にいうと地政学リスクは本来、カントリーリスクの一種ですが、最近では両者がほぼ同義、もしくはより広義の意味ですら使われるケースも目立ちます。
地政学リスクの代表格は、何といっても中東問題でしょう。中東が「世界の火薬庫」と呼ばれることからも分かるとおり、この地域では数十年前から戦争や紛争が絶えず、宗教・民族間の対立に石油をめぐる利権も絡んで複合的な危機の温床となってきました。
特にいま注目すべきなのは、中東問題を引き金として多種多様なリスクが世界に波及しつつあることです。中東を震源とするリスクといえば、かつては石油危機など資源・エネルギー関連のものが中心でしたが、ここ数年は過激派組織「イスラム国」(IS)などによるテロの拡大、シリア内戦を通じた難民の大量発生と欧州への移民急増、利害関係者の露骨な思惑を背景とした国家間の対立や国家内の分裂など、異質かつ深刻な複数のリスクが併存している状況です。
米国や豪州に拠点をもつ有力シンクタンク、経済平和研究所(IEP)の報告書によると、14年のテロによる世界の直接的な経済損失は前年比6割増の約529億ドル(約6兆4,000億円)でした。これは米国で同時多発テロが起きた01年の約515億ドルを上回る数字です。その内訳は約3万3,000人に上った死亡者(人的損失)が512億ドルと大部分を占めていますが、都市機能が一時的にまひしたり旅行客が減少するなど、消費や企業活動の停滞につながる間接的な影響も大きく、経済損失の全容を正確に把握するのは難しいのが実情です。
欧州で急速に広がる「排外主義」という本音
15年11月にフランスのパリで発生した同時多発テロをきっかけに、欧州連合(EU)では分裂や分断の危機がにわかに現実味を帯びてきました。EUは欧州の大半で人々が国境審査なしに出入国できる「シェンゲン協定」を結んでいますが、中東や北アフリカから欧州を目指す難民や移民が増加の一途をたどるなか、そこにテロリストが紛れている不安などから協定が一時停止となったのです。
EU加盟国の間では現在、国境審査の復活や難民受け入れの制限が広がりつつあります。こうした動きが収まらず本格的に国境が復活するような事態に陥った場合、ヒト・モノ・カネの自由な移動という欧州統合の理念に亀裂が生じることはもちろん、既存の生産・物流システムが崩れることなどにより、EU経済の競争力が著しく低下するリスクも指摘されています。ドイツの有力シンクタンクであるベルテルスマン財団が今年(16年)2月に発表した試算では、最悪の場合、EUは今後10年間で1兆4,000億ユーロ(約173兆円)の経済損失を被る恐れがあるとのことです。
テロの多発や移民の急増がEU加盟各国をいわゆる「排外主義」に走らせている格好ですが、なかでも最も急進的といえそうなのが英国の動きです。同国ではここにきてEU離脱を支持する国民が増えており、キャメロン首相は今年2月、EU残留の是非を問う国民投票を6月23日に実施すると表明しました。
英国民はかねてから、04年にEUへ新規加盟したポーランドなど東欧諸国からの移民が雇用を奪っているという不満を募らせていましたが、シリア難民の急増でこうした不満や懸念がいっそう大きくなっています。また、英国はEU加盟国でありながらユーロには加盟していないため、EUによるユーロ危機への対応策にこれ以上巻き込まれたくないという思惑もあるようです。
英国が離脱によってEUという巨大市場との自由なアクセスを放棄した場合、まず考えられるのは、英国経済の成長力低下を見越した通貨ポンドの大幅下落でしょう。米シティグループは、輸入物価の上昇などを通じて英国の消費者物価上昇率が最大で4%に達すると予測しています。もちろんEUにとっても経済的な悪影響は避けられないほか、英国に拠点をもつ海外企業にとってはEU諸国との貿易や資本取引においてメリットが得られなくなるため、本社や拠点の移転を迫られる可能性が出てきます。
それにしても改めて世界を見渡してみると、米国の大統領選といい、中国やロシアの領有権争いといい、露骨な排外主義および独善主義は世界中にはびこっており、もはや珍しい話ではありません。いわゆる大国によるむき出しの本音が世界の経済および社会にもたらす影響の大きさを考えると、いまさらこんな言葉を持ち出すまでもなく、現代はそれこそ地政学リスクだらけといえそうな気もするのですが、いかがでしょうか。