テクノロジーという「物語」は、どこまで信じることができるのか?
ポピュリズム(大衆迎合主義)から歴史の解釈、戦争の動機づけ、科学信仰にいたるまで、多くの人々を束ねる概念はある種の物語性を備えています。大多数が同じ物語を信じて行動できるという特異さが、人類の圧倒的な繁栄につながったわけですが、物語の影響力が大きい分だけ負の側面も大きくなるようです。
Q.民主主義の劣化が進んでいるとしたら、どのような理由が考えられますか?
米人権団体のフリーダムハウスが世界195カ国・15地域の自由度を算定した2023年の年次報告書によると、「悪化」の数が「改善」の数を17年連続で上回りました。ここでいう自由度とは、具体的には政治的権利や市民的自由などを指しています。同報告書からは、世界で権威主義が伸長するとともに、民主主義の劣化も進んでいることが読み取れます。
民主主義の劣化というと、米国のトランプ前大統領などによる独善的で排他的な主義主張が思い浮かびますが、実は米国民には元来、そうした気質が備わっているという見方もあります。米歴史家のリチャード・ホーフスタッターは1964年に発表した論文で、米国民について以下のように指摘しました。
−−民族、宗教、社会階級を巡る対立や地位喪失の危機に直面すると、過度の興奮や疑念、攻撃性、陰謀論といった症状が現れる。そこには偏執症的な「パラノイド・スタイル」が息づいている−−
慶応義塾大学の巽孝之名誉教授によると、多様な米国を一つに束ねるのは「物語」であり、大統領には物語作家としての力量が期待されるそうです。トランプ氏は米国にとって有害な悪魔を追い払うというパラノイド・スタイルの物語で、多くの米国民を引きつけてしまったというわけです。
もっと大きな視点に立てば、そもそも人類が集団生活を営むうえで、物語は必要不可欠だったとも言えそうです。イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは著書『サピエンス全史』のなかで「人間の大規模な協力体制は何であれ、人々の集合的想像の中にのみ存在する共通の神話に根差している」と指摘しました。
同書では共通の神話を、「物語」「虚構」「共同主観的秩序」などとも言い換えています。いずれにしても国家や人権、通貨といった概念は人間が創造した物語に立脚しており、非常に多くの人間がそれらの価値を認めるからこそ成立しているにすぎないと考えられます。
大多数に受けそうな物語を創って大多数でそれを信じるという、他の動物にはまねできない芸当が広範なコミュニケーションを可能にし、それが人類の圧倒的な繁栄につながったわけですが、今日では物語がもたらす負の側面も注目されています。例えば、物語はしばしば戦争の動機づけとして悪用されます。
評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲氏が著書『「戦前」の正体』で示した見立てによれば、明治国家は古事記や日本書紀の神話を利用して「日本は特別な国だった」という物語を創り、欧米列強に負けるはずがないと日本国民を扇動して富国強兵を進めました。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナとロシアは一体だったという歴史観の下で現在もウクライナ侵攻を正当化し、継続しています。
何かと結論を急ぐ傾向が強い現代社会では、ポピュリズム的な言説についても歴史についても、しっかりと吟味する時間や労力を惜しみがちです。誰もが都合のよい解釈に陥りやすく、その意味では物語が悪用されやすい環境にあるのかもしれません。しかし、それ以上に懸念されるのは、大多数の人々が良かれと思って信じた物語が、結果として自らに悪影響をもたらす可能性もあることです。
人々が科学の成功物語を自ら手放すことは考えにくい
今年(2023年)7月27日に、国連のグテレス事務総長は「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警鐘を鳴らしました。気象庁とNASA(米航空宇宙局)によると、7月の平均気温は日本国内でも世界全体でも過去最高を記録しました。
そうしたデータを待つまでもなく、数年前から異常気象はもはや常態化しつつある印象が強いのですが、一方で世界的に温暖化対策が進んだという実感が薄いのはなぜでしょうか。科学者を含めて多くの現代人は、いまだに地球環境もテクノロジーによってコントロールが可能と考えているのかもしれません。
独ボン大学の哲学者、マルクス・ガブリエル教授は環境問題について次のように語っています。「原子力発電や二酸化炭素回収などのテクノロジーで問題がすべて解決できるなら素晴らしい。だが環境の危機に対応するには、人間中心の考え方そのものを改め、科学万能主義とは異なる道を探らなければならない」
確かに現状をみる限り、地球温暖化は節電や省エネ、小手先の脱炭素対応といった従来のやり方では止められそうにありません。テクノロジーによるコントロールよりむしろ、生活習慣を含めた経済社会の抜本的な変革が必要なのだと思われます。しかし、それは人類が近代以降に信じてきた科学の成功物語を書き換える、あるいは手放すことを意味します。
残念ながら、倫理観や道徳観などによって人々が科学中心の価値観に変更を加えることは、考えにくいのが現実です。自らの生命が具体的な危機にさらされるような災厄が、大多数の身に降りかかりでもしない限り、本気で物語の改変に取り組もうとはしないでしょう。すなわち、気付いた時には手遅れになっていたという可能性がきわめて高いわけです。
歴史を振り返ると、人類は専制君主制という現代から見れば悪い物語を経て、とにもかくにも民主主義というベターな物語にたどり着きました。私たち一人ひとりが、実は創られた「一時期の物語」に突き動かされていることを自覚することで、もっと客観的な視点を持てるようにならないかと願うのですが、いささか楽観がすぎるでしょうか。