1. いま聞きたいQ&A
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1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その2)

この稿は前回Q&A「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その1)」からの続きです。日本のバブルの本質はロナルド・レーガン大統領の採用した経済政策「レーガノミックス」とその修正にあるのですが、そのレーガノミックスはなぜ、どのような背景から採用されたのでしょうか。そこにはベトナム戦争後に起きたアメリカの猛烈なインフレが横たわっています。


3.バブル発生の背景(二) アメリカの高インフレ時代

ここでは日本のバブル発生の「原因の原因」となった、1970年代末のアメリカの歴史的なインフレについて見てゆきます。1970年代後半から80年代初頭にかけて、アメリカは2年続けて2ケタ上昇の激しいインフレに見舞われました。

インフレはベトナム戦争と同じくらいの威力で、米国人の生活と社会を激変させました。1978年(昭和53年)のアメリカの消費者物価は+9%上昇しました。これはフォード政権最後の年だった1976年の消費者物価(+4.9%)だったのと比べるとたいへんな上昇です。

1978年末にはホメイニ師によるイラン革命が起こり、石油の輸出が停止されたのをきっかけに第2次オイルショックが起こりました。この時、OPECは原油価格を+14%も引き上げ、世界的なインフレに拍車をかけました。翌年の1979年(昭和54年)になるとOPECはさらに原油価格を2倍に引き上げたため、この年のアメリカの消費者物価は+13.3%にもなりました。これは第二次大戦が終わった1946年以来の最悪の記録です。

カーター政権下の1979年秋に、新しいFRB議長としてポール・ボルカー氏が就任し、真っ先に取り組んだのがインフレの根絶でした。FRBはアメリカの銀行がFRBに預ける準備金の額を(間接的にではなく)直接引き上げることによって、FRBが通貨量を直接コントロールすることにしました。

1979年10月から採用されたFRBの新政策は、すぐに金利に大きな影響をもたらします。それまで12%台だったアメリカのプライムレート(最優遇貸出レート)は、1979年秋には一気に15.75%まで上昇。翌1980年2月には16.5%になりました。

1980年夏ごろになると、FRBの採った強烈な高金利政策は徐々に効果を現わし、物価の上昇ペースは落ちてきました。しかしFRBは金利を下げることはなく、翌1981年夏にはプライムレートは20%を超えました。この空前の高金利によって、アメリカは徐々に不況色を強めてゆきます。不況になれば国民の生活は苦しくなりますが、同時にインフレも弱まります。1982年秋ごろに消費者物価の上昇はようやく+3%台に収まり、その後10年以上にわたって物価上昇はこの水準が続くことになります。

後からふり返ってみれば、アメリカのインフレのピークは1980年夏、金利のピークは1981年秋ということになりますが、想像を絶する高金利が峠を越えるまでに丸2年が費やされたことになります。こうして第2次オイルショックをはさんでアメリカを襲った戦後最大のインフレは収束するのですが、この時の高金利政策が後に大きな問題となって跳ね返ってきます。

4.バブル発生の背景(三) レーガノミックス

アメリカはウォーターゲート事件(1974年8月、ニクソン大統領辞任)とベトナム戦争(1975年4月終戦)によって社会全体が疲れており、それに追い打ちをかける70年代末のインフレと空前の高金利はアメリカ国民の生活を一変させました。もはや「黄金の50~60年代」の面影はアメリカ社会のどこにも見つけることはできません。そのような時代背景の中で、1980年秋の大統領選挙では、民主党のジミー・カーター現職大統領と共和党のロナルド・レーガン、カリフォルニア州知事との間で争われました。

1980年秋の大統領選挙では、アメリカ国民は高インフレと高金利、対外的には弱腰外交を採ったカーター政権に愛想をつかし、「強いアメリカ」への復権を謳いあげる保守的な共和党のロナルド・レーガン氏を第40代大統領として支持したのです。

レーガン大統領は就任直後の1981年2月に、弱体化したアメリカ経済を建て直すために経済再生計画を打ち出しました。これが後に「レーガノミックス」と呼ばれるようになるのですが、その内容は、

  1. (1) 歳出の大幅な伸びの抑制
  2. (2) 大規模な減税
  3. (3) 政府規制の緩和
  4. (4) 安定的な金融政策

の4つの柱から成り立っています。

この計画はそれまでのアメリカの経済政策を一変させるものでした。特に(1)と(2)と(3)はセットになっており、これらは経済に対する政府の関与を小さくして民間の活力を促す、いわゆる「小さな政府」を目指すものです。それまでのアメリカは、大恐慌後のニューディール政策以来、伝統的に不況には政府の支出で景気を刺激するケインズ政策を採用してきました。レーガン政権はその伝統を180度変える「サプライサイドの経済」をレーガノミックスとして打ち出したのです。

ただし政府の歳出を抑制するといっても軍事費だけは別でした。当時敵対していたソ連を「悪の帝国」と呼び、カーター政権下で縮小されていた軍事・防諜活動は再び活発になりました。人工衛星にミサイルを搭載する「スターウォーズ計画」もこの前後で明らかにされています。また(4)の安定的な金融政策は、ボルカー議長によって採用された高金利政策がそのまま踏襲されました。高金利はドル高を導くものですが、レーガン政権は経済力復権の象徴でもある「強いドル」を目指すことになりました。

レーガノミックスによって政府の支出は切り詰められましたが、軍事費は膨張を続け、しかも国民には大幅な減税が実施されたのです。これらはすべてカンフル剤のように景気を刺激する効果をもたらしました。高金利政策が災いして1981年夏からアメリカは景気後退に入り、世界を同時不況に巻き込んでゆくのですが、1983年なると早くも大規模な減税による消費拡大効果が効果を発揮して、アメリカと世界は景気回復に向かうのです。

ただし長い間にわたって金利が高いままであったため、アメリカ企業は借り入れがむずかしくなりました。企業は工場の機械を最新のものに切り替えることができず、次第に競争力が落ちてゆきました。高金利がドル高をもたらしているため、アメリカ企業は諸外国との価格競争力さえもどんどん失ってゆきました。円高で日本の企業がアジアに工場を作るのと同じように、アメリカも海外に工場を移すようになり、アメリカ製造業の空洞化もこの頃から始まりました。

当時の日本は、アメリカの貿易上における最大のライバルであり、最大の取引先でもありました。アメリカは大規模な減税で消費の拡大が始まっており、アメリカ国民は自動車などの物資を求めていますが、肝心のアメリカ企業は空洞化し始めています。アメリカの景気が拡大するにつれて日本から輸入する量は膨らむ一方で、アメリカの貿易赤字(日本の貿易黒字)もどんどん膨らんでゆきました。

同時に軍事費の増大は続いており、歳出の削減は思うように進まないために、アメリカの財政赤字も急速に拡大してゆきました。財政赤字の額は、レーガン大統領が就任した1981年に▲790億ドルだったものが、2年後の1983年には▲2070億ドルにほぼ3倍近くに膨らんでいます。貿易と財政という「双子の赤字」の問題はここから始まります。

「双子の赤字」は世界中に好景気をもたらしましたが、そのような巨額の不均衡は長続きするはずがありません。いつの日にかドルの信用が失われて、ドルの暴落が起こりかねない危険性をはらんでいます。そうなれば世界経済は根本的な部分で大きく動揺します。この「双子の赤字」問題を解消するのが目的で、ドル高の是正(ドルの切り下げ)が先進国間で合意されたのが、かの有名な「プラザ合意」です。日本はプラザ合意をきっかけにバブル経済に入ったとされています。

Q&A「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その3)」へ続く

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