3回目は、レーガノミックスによって復活を遂げた1980年代前半のアメリカ経済とその反動、プラザ合意による為替レート調整までを説明いたします。
5.バブル発生の背景(四) レーガノミックスと「双子の赤字」
1980年代前半にレーガン大統領によって実施された新経済政策、レーガノミックスは、大規模な減税と産業界への規制緩和、軍事支出の増大を組み合わせたものです。まだどの国もこのような革新的な経済政策を採用したことはなく、当初からアメリカのエコノミストの間でも政権発足時は「壮大なる実験」と言われたものです。
それでもレーガノミックスによる減税と政府支出の増大は、おおいに景気を刺激することになりました。不況と物価上昇、高金利にあえいでいたアメリカ経済は、政権1期目の半ば、1983年ごろから見事な復活を遂げました。ベトナム戦争の終結から10年近くが経過し、インフレと不況にあえいでいたアメリカは急速に自信と活力を取り戻してゆきました。
レーガノミックスの光の部分がアメリカ経済の活性化であるとすれば、影の部分は「双子の赤字」問題です。すでに70年代からアメリカ国民は、貯蓄よりも消費を好む過剰消費体質に傾いていました。それがレーガノミックスによる大規模な減税によってますます消費が刺激され、アメリカ国内での生産量では足りない分を海外から大量に輸入するようになりました。この結果、80年代に入って貿易赤字は急速に膨んでいったのです。
加えてレーガノミックスは巨額の減税や軍事支出の増大を行ったために、財政収支の赤字も一気に拡大しました。財政赤字をまかなうためには大量の国債を発行する必要があります。そのためには高金利を続けなくてはならず、国債費(元本償還と支払い利子の合計)が増え続け、財政赤字も拡大の一途をたどりました。アメリカの財政赤字は、レーガン政権発足前の1980年には▲738億ドルだったものが、1983年には▲2078億ドルに急激に拡大し、1986年には▲2212億ドルにまで達しています。
財政赤字の膨張によって金利が押し上げられ、それにつれてドル高がますます進みました。レーガン政権は「強いアメリカ」の復権の象徴として「強いドル」すなわちドル高政策を採っています。アメリカの長期金利(30年物国債金利)は1980年から1985年まで2ケタ台の高金利が続き、これに連動して為替市場では、1978年に1ドル=176円だった円ドルレートが、1982年11月には1ドル=277.65円と1977年以来のドル高を記録しました。
経済学の教科書では、「経常収支が黒字の国の通貨は上昇し、赤字の国の通貨は下落する」と教えています。経常収支とは、貿易収支、サ-ビス収支、所得収支、経常移転収支の合計で、中でもウェートの大きいのが貿易収支です。変動相場制の下では、為替レートが変動することによって、経常収支の赤字や黒字は修正されることになります。ところが80年代前半のアメリカでは、経常収支(=貿易収支)が大幅な赤字なのにドルが上昇を続けるという事態が起こりました。これは教科書の教えとは正反対の現象です。その原因は何と言ってもアメリカの空前の高金利にあります。
1983年以降、日本をはじめ世界は同時景気拡大の局面を迎えるのですが、それはアメリカが減税とドル高によって、世界の生産物をどんどん輸入してくれたおかげです。これこそレーガノミックスの恩恵と言えるでしょう。ところが当のアメリカでは、空前の財政赤字が高金利とドル高をもたらし、それによって貿易赤字が加速度的に膨らむようになったのです。レーガノミックスは「小さな政府」を目指すという当初の意図とは別の部分で、貿易と財政の「双子の赤字」問題に直面することになりました。
この結果、アメリカは1985年に史上最大の債務国に転落してしまいました。アメリカの対外純資産は1981年に1400億ドルの黒字だったのですが、1977年以降は毎年▲1000億ドルずつの経常赤字を重ねたために、1985年にはついにマイナスに転落し1986年には▲2600億ドルの赤字に落ち込みました。
第二次大戦後の世界経済は、アメリカのドルを基軸通貨とする経済体制を構築しています。基軸通貨とは、貿易の決済をすべてドルで行うという仕組みです。貿易とは相互の信用の上に成り立っており、あらゆる信用の基礎が「ドルへの絶対の信任」に基づいています。
そのアメリカが世界最大の債務国に転落してしまったのです。企業が倒産する理由は過大な借金によるものがほとんどです。アメリカは国家財政の運営にあたって、当時の日本をはじめ海外からの資金がアメリカの国債を購入することに頼らなければなりません。絶対の信任を寄せられていたドル(=アメリカ)への信用がひとたび崩れれば、アメリカの国債は買い手がつかず、アメリカは財政赤字を埋めきれなくなります。
そうなるとますます金利は高騰し、アメリカの民間企業や消費者を苦しめるようになります。おそらく株価も大幅に値下がりして、その影響は世界経済を直撃することになるでしょう。レーガノミックスの影の部分が債務国への転落をもたらし、磐石を誇っていたアメリカ経済の土台が突然不安定なものになってしまいました。これは世界の経済体制の根幹を揺るがす大事件です。世界経済は「ドル暴落」という最悪の事態に対する脅威を抱えるようになったのです。
1984年の大統領選挙において歴史的な圧勝を収めたレーガン大統領は、政権担当2期目において経済政策を大転換させます。それまでの「ドル高=強いアメリカ」という金看板を捨て去って、アメリカ経済を弱体化させているドル高の修正に舵を切るのですが、それが「双子の赤字」という巨大な不均衡の是正を目的としたプラザ合意です。
6.バブル発生の背景(五) 不均衡の是正「プラザ合意」
当時、日本とアメリカは自動車や半導体という基幹産業の分野で、最大の得意先でもあり、かつ最大のライバル関係でもありました。日本はドル高・円安を背景に対米輸出を拡大させ、アメリカとは正反対に大幅な経常黒字を記録していました。日本の経常収支は1979年から80年にかけて赤字でしたが、レーガン政権が誕生した1981年には黒字に転換し、1986年には前年比で2倍近く伸びて858億ドルの黒字を記録しています。まさにアメリカとは正反対の足取りをたどっています。
一方でアメリカの民間企業は、ドル高・高金利を避けて工場を海外に移転させています。アメリカは国内の生産活動が空洞化して、ますます海外からの輸入品に頼るようになってゆくのですが、それが労働者の雇用にも悪影響を与えるようになってしまいました。自動車や半導体という基幹産業の分野で、急速に力をつけてきた日本と貿易摩擦が激しくなってゆきます。
経常収支の赤字拡大と高金利がアメリカ経済の大きな負担となっているのは誰の目にも明らかです。輸入品の増大、製造業の海外移転によってアメリカ国内の雇用機会が失われており、これは次第にアメリカの議会でも大きな問題になりました。1985年春以降、赤字の元凶と見られていた日本への対日批判や保護主義の高まりが積み重なってゆくのです。
1985年9月22日、米、日、独、英、仏の5カ国の大蔵大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザ・ホテルに極秘で集まり、アメリカの抱える経済問題を討議しました。提唱者はアメリカのベーカー財務長官で、日本からは竹下登蔵相と澄田智日銀総裁が出席しました。そこで次の点で合意に達しました。
- (1) 為替レートが不均衡是正を調整する上で重要な役割を果たすべきであること
- (2) 為替レートは経済のファンダメンタルズをこれまで以上に反映すべきであること
- (3) 主要国の対ドルレートは一層の秩序ある上昇が望ましく、そのために5カ国はより密接に協力する用意があること
これが後の世に大きな影響を与えることになった「プラザ合意」です。プラザ合意は、それまでのドル高が経済の実態とはかけ離れたものであり、それを是正する必要があることをアメリカを含めた先進国の主要5カ国が認めたという点で非常に大きな意味があります。しかもそのためには5カ国がそれぞれ具体的な政策を掲げて、協調して行動する形をとったという点において実に画期的なものでした。
プラザ合意の直後から5カ国は大規模なドル売り協調介入を実施しました。日銀も週明けから史上空前のドル売り円買い介入を行い、ここから急激なドル安・円高が始まったのです。9月24日に1ドル=242円だった円ドルレートは9月30日には一気に1ドル=216円まで上昇し、12月31日に1ドル=200円を割り込んで199.95円まで進みました。
翌1986年も年明けから円高・ドル安が進み、2月初旬に190円割れ、3月中旬に175円割れ、5月には160円割れまで上昇しました。その後、アメリカのベーカー財務長官より「ドル高の是正はほぼ達成した」との発言がありましたが、8月に発表されたアメリカの貿易赤字が大幅に拡大したこともあって、9月には当時の史上最高値である1ドル=151円台まで円は上昇しています。
プラザ合意は、先進5カ国が政策協調を発動して為替レート調整を行うという意味で画期的なものでしたが、さらに言えば、世界経済に不安定をもたらしている対外不均衡(アメリカの赤字、日本の黒字)を是正するために、為替レートの調整を使って達成するという点でも大きな政策の転換があったと言えます。それまでの伝統的な考え方は、為替レートはマーケットが決定するものであって政府が直接関与するものではないというものでした。
同時にプラザ合意では、5カ国がそれぞれの国の政策を先進国共通の利害のためにすりあわせて実施する「政策協調」の形を打ち出しました。ここでの政策協調とは、アメリカ側は「財政赤字を縮小する、税制改革を実施する、保護主義的な措置に抵抗する・・」というものを行い、日本は「円レートに配慮しつつ弾力的な金融政策を運営する、財政赤字を削減する、民間活力を発揮して内需拡大に努力する・・」というものです。プラザ合意の後にも先進国蔵相会議(G5)はG7に発展して政策協調的な意思決定が行われていますが、この時ほどの強い合意と協調行動が実施されたことはその後あまり例を見ません。