今回のご質問は、1980年代後半に日本が直面したバブル経済の発生とその崩壊について、という非常に重いテーマです。1980年代半ばに学校を卒業して社会に巣立った人は現在40才くらいになっており、バブルの発生と膨張、その後の崩壊を実際の体験として知っています。反対に現在30才より若い人たちは当時は中学生以下であったため、バブルの最盛期は経済問題への関心がまだ薄かったと想像されます。1990年以降に訪れたバブル崩壊後の厳しい状況しか経験がないのも無理はありません。
バブルの発生~崩壊という経済現象は古今東西、実にたくさんの国で起きています。経済学上の大きなテーマになっており、この問題をとことん論じてゆくとそれだけで本が一冊できあがってしまいます。しかし大手銀行の不良債権問題がほぼ一掃された現在、あらためてその原因と過程を調べてみるのは意味のあることだと思います。ここでは概略しか触れられませんが、今後皆さんが掘り下げてゆく研究テーマのきっかけになればと思い取り組んでみます。
1.バブルとは
バブルという現象を一言で定義すると、「モノの価値が実体経済よりも大きくかけ離れて上昇すること」となるでしょう。このような現象は主に大幅な金融緩和によって引き起こされます。ただし単に低金利が続くだけではバブルは起こりません。低金利が長く続くとともに、ある特定のモノに対して「価格の上昇がずっと続く」という期待(=夢、願望)が人々の間で形作られ、そのモノに対して投機熱が発生することが必要です。
この場合の「モノ」とはどんなものでも対象になりえます。17世紀前半のオランダではかの有名なチューリップが投機の対象になりました。1979~80年は全世界で金(ゴールド)が投機の的でした(ただしこれはある特定の国で起きたというものではありません)。歴史的なバブル現象のほとんどが、土地や株式に対しての投機となって現れています。
社会に投機熱が広がると、副産物としてその国の経済が非常に活気づきます。長期間にわたる金融緩和によってその国ではおカネがあふれかえっており、しかも買ったモノが値上がりを続けているため、庶民や企業のふところは急速に豊かになっています。高額品の売れ行きがよくなり、普段は必要としないものにまで消費需要が高まってゆきます。また、世の中に楽観論が広がっているために人々は借金を恐れなくなります。借入金を増やしてモノを買うという行動が次々と広がり、その行動自体が経済をさらに活性化させます。
しかしバブルが永遠に続いたことは歴史上一度もありません。どこかの時点で必ず投機の対象となったモノは天井を打ち、投機熱は急速にしぼみます。そしてバブル熱が通り過ぎた後には借金の山だけが残ります。借金で支えられていた消費活動はあっという間に勢いをなくし、人々は借金の返済に苦しめられることになります。ジョン・K・ガルブレイス博士は著書「バブルの物語」の中で、バブルとはきわめて貨幣的、金融的な現象であり、60年から100年に一度、世界のどこかで繰り返し発生していると指摘しています。
日本におけるバブル経済を「地価と株価の急激な上昇」という意味で用いれば、一般的に見て、1985年末から1987年暮れにかけてバブルの種が蒔かれ、それに続く1988年の年初から1989年の暮れにかけて最盛期を迎えたと言ってもよいでしょう。バブルとはこの間の2年間を指します。政府の公式見解ではバブル景気は、1986年12月から1991年4月にかけて起こったとされていますが、すでに1990年に入ってすぐに株価は大幅な下落に転じていました。
2.バブル発生の背景(一) ベトナム戦争からレーガノミックスまで
1980年代後半の日本を舞台に土地と株式を対象として投機熱が高まった背景。これを乱暴に一言でまとめてしまえば、戦後の世界経済が行き着くところまで行った「終着駅」と表現することができるでしょう。日本のバブルがなぜ起こったかを本当に理解しようとすると、戦後の世界経済の歴史から話を始めなければなりません。そこで非常に広範囲にわたるテーマですが、簡単にその概略を見てゆきます。
バブル発生の背景(一)では、主に日本の戦後復興と世界経済について説明します。
日本は昭和30年代から40年代を通じて、歴史に名を残す驚異的な高度成長を遂げました。昭和31年(1956年)~昭和48年(1973年)の18年間で年平均成長率は+9.1%に達しています。現在の中国に匹敵するようなきわめて高い経済成長が20年近くも続き、この間に日本は敗戦国から先進国の仲間入りを果たすことができました。
日本は一次産品などの資源が少ないため、原材料を輸入に頼っています。そのため戦後復興から高度成長期にかけては日本は常に「輸入国」でした。日本の工業製品が「安かろう悪かろう」の評判から抜け出して、世界に向けて輸出する製品が増えて、大幅な貿易収支の黒字が定着するようになったのは昭和40年(1965年)ごろからです。そして1970年(昭和45年)以降は、日本の経常収支も黒字が定着するようになりました。
この日本の高度成長を止めたのが2度にわたるオイルショックです。1973年(昭和48年)から74年にかけて段階的に原油価格が引き上げられ(第1次オイルショック)、日本のみならず先進各国は成長率の大幅なダウンに見舞われました。1974年(昭和49年)の日本の成長率は-0.5%と戦後初めてマイナス成長を記録し、この年以降、+5.0%を超える経済成長はほとんど実現できなくなりました。
日本が戦後の高度成長から、成熟国家としての安定成長へと大きな転換を迎えたきっかけはオイルショックによってもたらされました。しかしオイルショックそのものは、その当時、世界的な規模で起こったインフレ(物価の上昇)によって引き起こされました。そして世界的なインフレの原因は、アメリカのベトナム戦争にたどりつきます。
第二次世界大戦における唯一の戦勝国と言われたアメリカは、世界経済の復興にあわせて世界に向かって物資を供給し続けることで、「偉大なる50年代、60年代」と呼ばれる繁栄の時代を迎えました。その唯一の戦勝国、世界の警察国家として君臨したアメリカは、1960年に共産主義の脅威を封じ込めるという目的でベトナム戦争に突入してゆきました。
戦争は巨大な浪費活動です。ベトナム戦争は1975年(昭和50年)に終戦を迎えるまでに1500億ドルもの巨額の戦費を投じました。それまで「黄金の1950~60年代」を通じて空前の経済的な繁栄を謳歌していたアメリカですが、15年にわたる長い戦争の月日と世界的に広がった反戦運動によって次第に社会的、経済的に疲弊してゆきました。とりわけ巨額の戦費をまかなうためにアメリカの国家財政は急激に赤字が膨らみ、戦費調達に追われるようになったのです。
第二次大戦後の世界の経済体制は、戦勝国のアメリカが中心となって「ブレトン・ウッズ体制」と呼ばれる通貨制度を軸に形作られました。ブレトン・ウッズ体制は固定相場制で、これはドルを基軸通貨と定めてドルと金の交換比率を固定しておき、各国はドルと自国通貨の交換比率を固定することによって自国通貨の価値に裏づけを持たせる、というものです。しかしベトナム戦争が激化するにつれアメリカの財政赤字が急速に膨張すると、ブレトン・ウッズ体制で定めたドルと金の交換比率を維持することがむずかしくなってきました。
そこで1971年(昭和46年)8月にニクソン大統領は、金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の導入などを柱とする新しい経済政策を発表しました。これが「ニクソン・ショック」です。ニクソン・ショックによって基軸通貨であるドルは金と切り離され、これ以降、先進各国は通貨の変動相場制に移ってゆくのです。
固定相場制の最大の長所は、通貨(ドル)の発行量が金の保有量によって制限されている点にあります。どの国でも中央銀行や政治家は景気を刺激する目的で、通貨を多めに発行したがる傾向があります。しかしそれではインフレが起こりやすくなります。為政者の通貨増刷意欲に歯止めをかけるために、固定相場制は便利な制度と言われています(その弊害もありますが)。ニクソン・ショックによって、ブレトン・ウッズ体制で定めたドルと金の交換が停止されたことで、ドルの発行量を制限する歯止めがなくなりました。戦争調達に走るアメリカはドルの大増刷に走り、これが後の世界的なインフレの原因となりました。1973~74年になるとOPECが段階的に原油価格を引き上げ、オイルショックにつながっていったのです。
1970年代後半はオイルショックによる低成長とインフレが共存する「スタグフレーション」の時代です。1979年(昭和54年)に金価格が歴史的な高騰を見せたのも、米国で起きた天井知らずの高金利と高インフレがもたらしたものです。1980年(昭和55年)11月の大統領選挙において、民主党のカーター大統領を破って共和党のレーガン大統領が登場し、革新的な経済政策「レーガノミックス」を発表します。ここで時代は再び大きな転換期を迎えます。
レーガン政権時代に行われた新しい経済政策と、その後の驚くべき政策転換(プラザ合意)が、日本のバブル発生に大きな役割を果たすことになるのですが、それは次回Q&A「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その2)」に述べることにいたします。