財政拡張を望む声が高まっている背景について教えてください
「財政赤字で国家が破たんすることはない」と説く経済理論
米国で最近、新しい経済理論を巡って大きな論争が巻き起こっています。渦中にあるのは、ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授が提唱する「MMT(Modern Monetary Theory=現代貨幣理論)」という理論。通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる紙幣を自由に刷ることができるため、財政赤字によって国家が破綻することはない、と考えるのがMMTのユニークな特徴です。
ケルトン教授は、完全雇用と物価安定を達成するには金融政策ではなく、財政政策への依存度を高める必要があると主張しています。長期的な観点からみると、インフラや教育、研究開発などへの投資によって国の潜在成長率が高まるのは自明のことであり、民間部門による十分な投資が見込めないならば、政府が財政出動で補うべきだという指摘です。
MMTでは財政出動の財源としてFRB(米連邦準備理事会)による国債買い入れも当て込んでいますが、財政赤字のツケを中央銀行に回す、いわゆる「財政ファイナンス」は、歯止めのないインフレを招く恐れがあるため一般にはタブー視されている政策です。そのような政策をあえて主張するMMTに対して、主流派経済学者からは「経済理論とすら呼べない」などと厳しい批判が飛んでいます。
インフレ懸念に関してケルトン教授は、「日本政府と日銀はMMTを長年にわたり実証してきた」という持論を展開しています。日本の政府債務は対GDP(国内総生産)比で240%と主要国で最悪の水準にありますが、日銀は日本国債の40%を市場から買い上げており、事実上の財政ファイナンスではないかと以前からささやかれてきました。政府債務の大きさが問題になるなら日本でもっとインフレが進むはずですが、現時点でその兆候はないというのがケルトン教授の見解です。
インフレなき世界が中央銀行の権威を失墜させた?
MMTを巡る論争は、ある意味で非常にタイムリーな出来事といえそうです。今年(2019年)3月にFRBは「19年中の利上げを見送り、9月末で資産縮小も停止する」という方針を示しました。18年末以降、世界経済の減速懸念が広がってきたことが背景にはあるようですが、一方では中央銀行による金融政策の限界が露呈し始めたとみることもできます。
金融政策の経済理論的な枠組みは近年、市場に供給するマネー量を増やせば期待インフレ率が上がり、経済の成長とともに物価も上昇するという「インフレ目標政策」が中心でした。FRBでもバーナンキ議長時代の12年1月に、金融政策の基本方針として年率2%のインフレ目標を導入しています。ところが日米欧のいずれにおいてもインフレ率は思ったほど上がらず、金融政策を支える理論への評価は大きく揺らぎつつあるのが実情です。
ここ数年、市場で話題を呼んでいる「長期停滞論」によれば、経済のグローバル化や労働力人口の減少、技術革新の影響などさまざまな要因を通じて、特に先進国で経済成長やインフレが実現しにくくなっている模様です。FRBが18年まで利上げと資産縮小を進めてきた背景には、景気過熱や過度のマネー供給によるインフレを警戒する意図があったはずですが、そもそもインフレが起きにくいのなら金融引き締めを急ぐ必要もありません。
金融の緩和・引き締めという両面において中央銀行の権威や存在感は薄れつつあるわけで、そんななか、MMTのような財政拡張論が金融政策へのアンチテーゼとして生まれてきたのは自然の成り行きという気がします。
世界銀行の資料をもとに1961~2017年の半世紀以上にわたる世界の経済成長率と人口増加率を振り返ると、興味深いことが分かります。インフレの影響を除いた実質GDP成長率は64年の6.6%、人口増加率は69年の2.1%がそれぞれピークにあたります。その後はいずれも緩やかな低下基調にあり、今日では実質GDP成長率が2~3%程度で低位安定、人口増加率は1.1%台まで低下しています。私たちの印象よりもずっと以前の段階で、経済成長率も人口増加率も頭打ちになっているわけです。
長期の時間軸でみると実質経済成長率と人口増加率の間には連動性が認められますが、国連の推計によれば、2050年には人口増加率がさらに0.5%台まで低下する見込みです。この見通しに沿うならば、経済成長率もこれから緩やかに低下していく可能性が高いといえるでしょう。そのような経済の縮小局面においては、インフレよりむしろデフレを心配せよという声が増えることも予想されます。
MMTの主張には、折から問題視されている所得や富の格差拡大を財政拡張で是正するという内容も含まれており、ポピュリズム(大衆迎合主義)の政治家が取り上げるには都合のよい材料となります。MMTが実際に採用されるかどうかはさておき、先進各国は今後、金融緩和の長期化とともに財政出動の規模増大にも再び乗り出すかもしれません。
過去にも多くの市場関係者が警鐘を鳴らしてきたように、行き過ぎた金融緩和と財政拡張は信用バブルのとめどない膨張をもたらし、将来的なバブル崩壊のリスクを増大させます。最終的にいつどこで何が起きるのか、誰にも予測はできませんが、インフレ懸念が説得力を欠くなかで「信用の暴走」に対する危機意識がかつてないほど弱まっている点に、どうにも薄気味悪さを感じてなりません。