1. 金融そもそも講座

第28回「介入、政治バトルの場」

今回は「介入の問題点」を書こうと思ったが、韓国・慶州でG20が開かれる直前に原稿を書くことになったので、「介入の問題やメリットとデメリット」といった一般論は後回しにして、「為替は政治バトルの場である」ということを説明しようと考える。その方が読者にとってもエキサイティングだと思う。日本の立場は非常に複雑で、それは会議が終わっても同じだろう。

80円を巡る攻防

局面はまさに1ドル=80円を巡る攻防の最中にある。円の対ドル史上最高値は私がディーリング・ルームの現役だった1995年4月19日の79円75銭で、この原稿を書いている時点のドル・円相場は81円がらみ。「何か大きな円高の動きがあれば、史上最高値更新」となってもおかしくない地点にある。当然、市場には独特の緊張感が漂っている。9月の中旬に行った介入を再び日本の当局はするのか、しかし介入しても効果がなかった場合どうするのかなど、市場はいろいろな意味で切迫している。

対円ばかりでなく、米国のドルが各国通貨(豪ドル、ユーロなどなど)に対し強い下方圧力がかかっている第一の理由は、10月中旬のバーナンキ米連邦準備制度理事会(FRB)議長のボストン講演(http://www.federalreserve.gov/newsevents/speech/bernanke20101015a.htm)を見れば分かる。ここで同議長は米国の「追加金融緩和」を強く示唆した。なにせこの講演の中には、「additional」という単語が5回も出てきている。実際に11月初めのFOMC(米連邦公開市場委員会)でFRBが金融緩和をすれば、金利差からドルは各国通貨に対して魅力がなくなるから下落する。バーナンキ講演を読めば、米通貨当局は追加緩和を「やるか、やらないか」ではなく、非伝統的な金融政策(例えば国債の買い入れなど)を含めて「何を、どうするのか」に移っていることがはっきりと分かるのである。

米国がデフレ傾向の強まりのなかで、国内景気の悪化に歯止めをかけることを主眼に強い金融緩和を行ったら、円ばかりでなく世界各国通貨がドルに対して値上がりする危険性が高い。本当は資本輸入国である米国は、各国から資金を集めねばならない。財政の赤字を埋め合わせるためにもそうなのだ。金利政策を含めてドルを魅力的なものに保つ必要がある。それなのに、今はなりふりかまわぬ金融緩和、そしてその結果としてのドル安を容認している。

もう一つの狙いは、ドル安によって米国の輸出が増え、それが米国経済の回復につながってほしいという希望。オバマ大統領は輸出振興によって200万人分の雇用を生み出したいと言っている。しかし直近の米国の貿易収支統計を見ても、貿易赤字はドル安にもかかわらず大きく赤字基調を続けたままだ。

ドル安放置は危険な賭けだ。本来は基軸通貨であるドルが歯止めなく下がっていることが誰の目にも明らかになれば、「対米証券投資は控えよう」という動きが出かねない。なぜならドルが下がるということは、米国に置いている日本や中国の資産が目減りするということだからだ。過去にはそういうことが何度も起きている。しかしどうやら今の米国にはその危機感はなく、それをひっくり返す気持ちもないようだ。

人民元問題

米国は、自国の貿易収支が著しく悪化しているのは、「中国が人民元のレートを不当に安く設定し、それで輸出を伸ばして不当に稼いでいるからだ」と考える。それを反映するように米議会では、「人民元を不当に安く誘導している」ことを理由に、「対中制裁法案」が提出され、かつ通過している。人民元の為替レートさえ切り上げられれば米国経済は救われると、考えているふしがある。無論、中国の人民元が不当に安いのは問題だが、ドルが安すぎるのも非常に大きな問題なのである。つまり、「通貨安競争」といわれる戦いは、第一に米国と中国の間で戦われている。

米国は自国通貨安の放置国であるのに、「問題はもっぱら中国の人民元だ」と言い、一方の中国は「今人民元を切り上げたら、中国で企業倒産や失業が頻発する。中国経済は混乱するが、それは中国が世界経済をけん引できないことを意味している。それでよいのか」と警告するという図式。米国が弱いのは、今までのドル安にもかかわらず米貿易収支がむしろ悪化している現実で、これは「米国はドルを安くしたら何が売れるのか」という疑問につながっているのである。米中の為替を巡る戦いは厳しい。

立ち位置が難しくなっているのは日本や欧州、オセアニア諸国、そして途上国である。ドルに対して既に史上最高値になっている通貨は、欧州ではスイスフラン、オセアニアでは豪ドル、アジアではいくつかの途上国通貨があり、最近はインドが自国通貨高を防ごうと介入したと伝えられた。ドル安にイラついているのは、南アフリカなどの国も同じだ。日経ヴェリタスによれば、同国の通貨ランドは対ドルで5月の底値から20%も上昇したという。ドル安・自国通貨高にイラついているのはブラジルも同じだ。

こうしたなかで、日本と韓国や中国の間でも通貨を巡る言い争いが生じている。日本の菅首相が「韓国、中国にも共通ルールの中で責任ある行動を取ってほしい」と通貨問題に触れたからだ。日本の企業人なら、ウォンの動きが実に韓国の輸出企業に都合よく動いていることを従来から苦々しく思っていた。世界経済の危機に当たってウォンは必ず真っ先に下落し、強さを保つ円との乖離(かいり)が広がる。そのたびに日本企業の競争力は削がれる、という展開だったからだ。韓国は日本よりはるかに経済規模が小さいからとか、どちらかといえば「為替に振り回されてかわいそう」という印象も日本にはあるが、韓国がウォン安でしっかりと輸出を伸ばしてきたのは事実である。

日本の政府当局者はこの事に気がついていたが、今回やっと口にする覚悟を持った。韓国の新聞はこれに反発した。中央日報はさっそく社説で取り上げ、日本政府のこの立場に異議を唱えている。中国も「中国市場で稼いでいる日本にこのことで発言する資格はない」と大反発。随所で為替が政治摩擦を引き起こしている。

切れるカードは…

通貨安競争は、世界各地で複雑系の色合いを強くしている。しかし一番重要なのは、米国がドルの下落をもっぱら「自国に有利」という立場から放置していることだ。にもかかわらず、貿易収支がちっとも改善しないのは、米国の輸出入の構造が為替弾性値の低いものになっていることを示している。

中国は米国の人民元切り上げ圧力に屈することはないだろう。中国がやっているのは何かの会議があると、その直前になって人民元を切り上げて非難をかわし、その後はまた人民元をいじるという“操作”そのものだ。しかし米国の財務省は何を思ったか、中国を為替操作国と認定しているはずの報告書の発表を先送りした。中国が人民元を操作していることは明確なのに、まだ幻想を抱いていることは不思議だ。やはり中国の「経済カード」を意識しているとしか考えられない。ここでも駆け引きが演じられている。

となると、通貨ゲームはこれからもカードの“見せ合い”になる可能性がある。もしそうだと、日本のカードは弱い。台頭する中国に比べれば、日本は市場としてはそれほど魅力ある存在ではない。日本の「経済カード」は昔ほどではない。米国がドル安を放置しておけば、「金融市場は大変なことになりますよ。米国に外貨準備を置いている日本としては、それを考えざるを得ませんよ」という「金融カード」をちらつかせることはできる。しかしこのカードを出して米国の足をすくうと、中国に対する米国の立場を弱くしてしまう。だから複雑系なのだ。

さらに中国の海洋権益の拡大主義に立ち向かえるのは、今のところ米国しかない。その点では日本は米国から支援を受けねばならない。「軍事カード」は米国にある。日本がまた「為替介入」というカードを切るにしても、状況は限りなく複雑なのだ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

バックナンバー2010年へ戻る

目次へ戻る