金融そもそも講座

英国のEU離脱、その衝撃(中編)当初の急落から回復へ

第166回

世界の株式市場は米国を中心に「離脱越え」の展開を見せている。つまり株価指数が英国の国民投票によるEU離脱決定(6月23日)以前の水準に戻ったのだ。米国の株価に至っては、さらに続伸して過去最高値を連日更新した時期もあった。離脱が決まった瞬間にはマーケットの大波乱が予測され、実際にその後数日間の株価は世界的に大幅に下落、悲観論が市場を支配した。ところが時間を置かずに米国を中心に反発に転じ、この原稿を書いている時点では高値追いの展開である。なぜか。非常に良い材料なので、今回は英国のEU離脱を舞台に据えて、マーケットとは何かを考える。

当初の急落から回復へ

まず、英国の国民が離脱を選んだら市場は大混乱すると、なぜマーケット関係者は考え、実際に当初はそうなったのか。それは既存秩序の大きな変化と受け止められたからだ。英国のEU離脱は、統合に向かうヨーロッパという過去半世紀にもおよぶ大きな流れに逆行するものであり、その後の世界は予測し難いとの不安感をマーケットにもたらした。不安感をマーケットは一番嫌う。加えて英国がEUを離脱したら他のEU諸国の中にも離脱に向かう動きが続出し、ついにはヨーロッパという近代史の中で一大勢力であった地域が経済的、社会的に力を弱め、没落につながるのではないか――と考えた人もいた。

マーケット関係者もほとんどが、英国民が離脱などという決断を下すはずがないと考え、残留を予想したのである。それは離脱によって英国が経済的に有利になることは何もないと思われたからだ。ロンドンは国際金融センターの地位を失い、英国に進出している企業は撤退に向かう。マーケットの関係者はまず「経済的には――」と考える。しかし選挙は経済だけが問題なのではない。多くの英国民はEUの指図が嫌だったし、移民問題もあった。その結果が離脱だった。マーケットには大きな驚きが広がった。

世界の繁栄をこれまで支えてきた自由貿易の流れが変わってしまうのではないかという懸念も出た。英国とEU諸国間の貿易に支障が生じ、それをきっかけに世界貿易が減退するようなら、グローバルに成長率が低下してデフレが生ずるかも知れないと考えた関係者もいた。実際に最近数年間の世界貿易の伸びはWTOが懸念するほどに低く、場合によっては減少している。離脱によって従来の世界秩序が崩れるだろうと多くの人が考え、それが離脱当初のマーケットの混乱を呼んだ。

「まさか」の離脱だったが、考えてみれば結構世の中にはまさかがある。我々の身の周りにも起こる。米国の大統領選挙でのトランプ旋風も、まさかだった。彼は共和党の大統領候補になりそうだ。実は世の中には「ある」だけではなく、まさかは多い。

ではなぜ人間はまさかと思うのか。それは人間が固定観念を持ちやすい動物だからだと思う。あらゆる可能性を考えずに「これは、こうだ」と決めてしまう。それは人生が短いことと関係している。人類の歴史は長いが一人一人の人間の命は短い。40~50年も続いたことは、その時代に生きた人には永遠に感じられるのだろう。それが当然という固定観念が生まれる。例えば、戦後しばらくして見られた日本社会の終身雇用とか年功序列賃金。戦後の成長経済とともに生きた人間にはこれらは永遠のように見えた。しかし日本の長い歴史をからみれば、戦後というごく一瞬の出来事だった。人間はしばしば直ぐに思い込む動物だ。

マーケットは複雑系

では、まさかの英国のEU離脱だったのに、マーケットはなぜ素早く回復したのか。多くの人はまだ戸惑っている。しかし、“そもそも的”に筆者が解説すれば、それは人間の倫理感や思考の変化には時間がかかるのに対して、マーケットを動かすお金には独自の論理があり、姿勢を変えるのに躊躇(ちゅうちょ)がないからだと思う。社会の一般常識とマーケットの論理が大きく違うことを、筆者は社会人になって早々に学んだ。

かつて書いたことがあるが、ザイールでの内戦が激化したときに銅相場が急騰した。戦争=悪と考えていた時期だから、「それで銅相場が上がる」というプラスの反応はにわかには理解できなかったし、それは良いことなのかとさえ考えた。しかし感情を抜いて論理的によく考えてみれば、銅の産地だったザイールが内戦で供給途絶になれば、世界的に銅の供給不足が起きる。だったら銅相場が上がるのは当然だ。今回の英EU離脱は「我々の従来のヨーロッパに対する概念を壊した」という点は確かだ。しかし離脱を我々は概念的にしか考えていなかったのではないか。

離脱へのプロセスはとてつもなく時間がかかる。その間は結局、今のEUと英国との関係は変わらないし、その後もそれほど破壊的な取り決めがまとまるのでもないかもしれない。それはその時になってしか分からない。そんな先の話をマーケットは待っていられないのだ。その間にも消費者は生活し、生産活動は継続し、企業は収益を上げる。よく考えればそうだ。

離脱決定後に新たな材料も出てきた。「米国は利上げを見送り」「英国は利下げする」という観測だ。つい最近まで米国と英国は、利上げが噂されていた。それが、当面FRBの利上げはなく、英国は利下げとなれば、株式市場はこれを好感する。金利が安いのは株式市場にとっては良いことだ。

重要なのは、マーケットとは複雑系だということだ。今のヨーロッパには英国のEU離脱など遠心力が働いている。それは確かだが、逆にそれが大変な事態を呼びそうだと人々が警戒すると、逆に求心力も働く。直後にあったスペインの総選挙では、反EU勢力のポデモスは予想されたほどには議席を伸ばさなかった。相場を壊しそうな力があれば、当局はマーケットが機能を損なわないような措置を打つ。つまりパンチとカウンターパンチの連続がマーケットなのだ。一方にだけ振れることはない。

マーケットのバランス力

世界のマーケットでは、壊す力もあれば、対抗して守り育てる力も働くと考えれば、マーケットには時間の経過とともにバランスが戻るのはよく分かる。離脱で一旦壊れたマーケットは素早く、守り育てる力に信頼を寄せたということだ。

むろん材料もあった。5月に非常に弱かった米国の雇用統計が6月に予想を10万人以上上回る28万7000人もの増加(非農業部門就業者数)になった。この結果、「米国経済は心配するほど弱くない。よって世界経済も先行きはそれほど懸念しなくてよい」との見方が強くなった。米国経済については再び「Goldilocks」という単語が使われ始めた。マーケットにとっての理想的な状態(経済はしっかりしているが、金利を上げるほどではない)を指す言葉だ。

そして英国の政局は、キャメロン首相が辞めてメイ新首相に予想外に素早くバトンタッチされた。ヨーロッパは落ち着きを取り戻しつつある。むろんメイ新首相はEUとの難しい交渉に当たらなければならないが、英国側もEU側も結局は双方の経済を壊すようなことはしないだろうという見方が強まっている。

むろん為替の動きを見ると英国の方の損失が大きそうだ。しかしギリシャ問題が結局は世界を揺るがす問題にならなかったのと同じように、EUから離脱した英国は世界経済から見ればそれほど大きな存在ではない。特に米国にとっては経済的には小さな存在だ。世界のマーケットが米国を先頭に反発に向かったのには理由がある。

結局こういうことだ。マーケットは「まさか」に対してknee-jerk reaction(脚気(かっけ)反応=無条件反射的な反応)を起こす。しかしいつもマーケットは、それで良いのかと直ぐに点検する。その間に相場のレベルは変わって(しばしば下がって)いるから、新しい水準からの市場評価は変わる。マーケットにはマーケットの力がある。人々がまだぼうぜんとしている間に、逡巡(しゅんじゅん)のないマーケットは「次」を目指して動く。

むろんマーケットが間違わないわけではない。しかしマーケットは間違いを直すことに逡巡しない。それは国家、企業、人間の改悛(かいしゅん)よりもはるかに機敏だ。マーケットは世の中の常識や倫理とは別の論理、ルールを持つということを理解することが重要だ。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。