金融そもそも講座

時間との競争、香港問題

第243回

9月早々に筆者は香港に急ぎ渡り、騒乱の街の空気を吸ってきた。少し長い目で見ると、今後の東アジア情勢展開の鍵であり、米中貿易摩擦の行方をも左右しかねない重みを持つと判断したからだ。様々な予定の合間を縫っての約24時間の香港滞在だったが、行ったからこそ分かったことが多かった。本講座の読者の方々にも、いくつかの視点を提供しておきたい。

香港の将来は台湾の将来でもあり、そして東アジア全体の将来でもある。少し長い視点になるが、考えるきっかけにしてほしい。香港の人々、特に学生と市民は香港の将来に関して深い懸念を共有していた。「逃亡犯条例」はその口火を切っただけだ。彼らは逃亡犯条例が完全撤回されたあとも、中国がとてものめないようないくつかの重要な要求を掲げて戦っている。

ラストチャンス?

「今行った方が良い。二度と“自由な香港”を見るチャンスはないかもしれない。行こう」と判断して香港行きを最終的に決めたのは9月3日火曜日の昼。翌4日水曜午前10時の行きのフライトと木曜午後2時ごろの帰りのフライトを取った。

航空券の予約を入れる前から「ガラガラだろうな」と予測したが、座席予約でそれを確認した。実際に乗ったら、176人乗りの飛行機に乗客は75人と客室乗務員が言っていた。9.11の直後にニューヨークに行ったときも196人乗りに対して乗客65人で、それを見ても香港の経済が呻吟(しんぎん)しているであろう事は明らかだった。実際に香港のホテルもガラガラで部屋の希望を十分に聞いてもらった。

やや劇的だったのは、「行政長官が逃亡犯条例の完全撤回を決め、今日中に発表する」という独自ニュースをサウスチャイナ・モーニング・ポストが報道したのが4日の午後2時過ぎ。その直後に私は香港に着いてタクシーでワンチャイのホテルに到着。その時、同ニュースを見た。「彼女は妥協しないし、中国もそれを許さない」という見方が大勢だったので、ニュース自体に驚いたが、到着と相前後というタイミングにも驚いた。香港の友人に「もってますね」と言われた。(笑)。

チェックイン時にホテルフロントの女性にこのニュースを伝えたら、「それが、本当に私たちが欲しかったものだ」と言った。今でも頭に残る鮮烈な言葉だ。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官が「逃亡犯条例の完全撤回」を正式発表したのは同日午後6時前。

「完全撤回」の情報が流れた時点から考えたのは、「今日、香港市民や学生は夜の街に繰り出すかもしれない、それは見る価値がある」という事。銀行員時代の職場の仲間3人と古いバンチャイビルの上のチャイナクラブで中華を頂いた後、我々も街に出た。1時間以上歩いた。人出は少なかった。雨は降っていなかったのに。香港に居住している私以外の3人がそろって口にしたのは、「今夜の香港は異常に人出が少ない」だった。あるメンバーは「(人出は)普段の10分の1くらい」と言った。

逃亡犯条例の完全撤回が発表された数時間後。中環(セントラル)地区(日本で言えば銀座)での話だ。市民や学生がそれを喜んでいたなら、人出は多いはずだ。実はその時、九龍で学生と警官隊の小規模なにらみ合いがあったらしい。しかし混乱の舞台の一つだったワンチャイやセントラルは非常に静かだった。

5大要求

理由は時間を置かずして理解できた。騒動発生から3カ月余。今の市民や学生の要求は次の5つだ。

  • 1.逃亡犯条例改正案の完全撤回
  • 2.今回の騒動を“暴動”とする政府見解の撤回
  • 3.逮捕された参加者の釈放
  • 4.警察への責任追及と独立した調査実施
  • 5.“民主的な選挙”の実現

キャリー・ラム行政長官が完全実施を約束したのは5項目のたった1つだ。「それでは満足できない。政府や中国に対する反対運動を続ける」というのが多くの香港市民、学生の要求なのだ。「1つ認められたから街に出て祝う」という雰囲気ではないわけだ。安易に喜べば、「この程度を与えれば香港の騒動は収まる」と読んだ中国政府の思う通りになる。その後の週末にも香港では数万人がデモを行っている。

逃亡犯条例の完全撤回が騒動のスタート直後に提示されたら、騒動は収まった可能性が高い。当初の学生・市民の要求はそれに絞られていた。しかし時間の経過の中で当然ながら要求は広がり、「不退転の5項目」となった。正式撤回を報じる中で「too little too late」と判断したサウスチャイナ・モーニング・ポストの言う通りの展開となった。

直近の週末のデモ参加者が持っていたスローガンには「米国は我々に支持を」といったものが多いという。そこがポイントだ。デモは米国の総領事館に向かったという。「トランプ大統領、助けてくれ……」ともあったらしい。香港政府の後ろ盾となっている巨大な中国と対峙するには、市民・学生だけではいかにも無力だ。やはり米国の後ろ盾が必要だし、市民・学生はそこに着眼した。しかしこれは10月の米中貿易交渉を複雑なものにする可能性が高い。

あと28年

最初に、「二度と“自由な香港”を見るチャンスはないかもしれない」と考えたので行った、と書いた。しかし久しぶりに香港に行って一つ分かったことがある。それは「香港は天安門でも、チベットでも、ましてや新疆ウイグル自治区でもない」ということだ。

日本にいるときはあまり考えなかったが、香港の住民750万人のうちのかなりの部分は非中国人だ。もちろん日本人も多いし、欧米人も多い。当たり前だが、チャイナクラブの客は半分以上が非中国人だったし、夜の街を歩いてもコーカソイド(白色人種)が多い。

その香港に例えば人民解放軍を投入するということになると、それは中国にとって「国際社会全体を敵に回す」ということを意味する。当然不測の事態が予想される。それは10月1日の建国70周年を控えた中国本土政府にはとうてい選べる選択肢ではなかったのではないか。私はチベットにも新疆ウイグル自治区にも行ったが、そもそも情報が出にくい場所にあり、当時は誰もが映像を作れる時代ではなかった。なので、「一体本当に何が起きたのか?」については、今でも色々な説があるくらいだ。

しかし香港には世界中から常に多数の目が注がれ、多くの外国メディアがカメラを回し、そして学生も市民も記録装置(主にスマホ)を身に付けている。そこでの惨事惹起(じゃっき)は国のイメージを著しく損なう。中国本土政府は恐らく「これで騒動が収まってくれ」と祈っていると思う。しかしそうはなっていない。

それは、より大きな問題を香港が抱えているからだ。それは「一国二制度」があと28年の寿命だということだ。つまり2047年。それこそ香港が抱える根源的な問題だ。次回も香港を取り上げる。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。