金融そもそも講座

強さの秘密は? 現地から見る米国

第218回

波乱局面を経ながらも、上げが止まらない米国の株式市場。ナスダック総合株価指数が8000の大台に乗り、S&P500種株価指数も2900台に。ともに最高値を更新しており、ふと気がつくとダウ工業株30種平均も最高値更新が近い。日本から見ると「ちょっとハチャメチャ」にも見える米国が、なぜ世界の株価をけん引し続けるのか。

筆者は久しぶりに米国に来てこの文章をニューヨークで書いている。ここ数年はチベット、新疆ウイグル自治区、ブータンなど、あまり日本人も訪れない海外諸国・地域を訪ねていた。今回はマーケットの本丸を取材している。というのも、「やはり自分の目で見る必要がある」と思ったからだ。ロサンゼルス南のオレンジ郡に4日ほど居て、大リーグ・エンゼルスの大谷選手の試合を3日連続で観戦の後、8月28日にニューヨークに入った。今回は体感的な米国リポートをお届けしたい。

鍵は多様性

「なぜ米国の株高は続くか」の疑問の前に、今回来るにあたって、筆者には大きな問題意識があった。それは「一体米国という国は、大国としてのピークを過ぎて衰退に向かっているのか、それともまだあと百年は続く覇権半ばの国なのか」という点だ。ちょっとタームが長すぎる印象もあるが、株価が将来を予測するものだとすれば、市場はまだまだ「米国の世紀」の持続を予想しているようにも見える。

その力の源泉は何か。今回の旅で非常に強く印象に残りつつあることがある。数日過ごしたところで私の頭に浮かんだものだが、それは「多様性こそ、この国の強さではないのか」という改めての印象だ。むろん以前から米国は多様性の国だ。多様な民族、多様な宗教、多様な文化。それらが入り交じっている。

筆者は最近ずっと東京に住んでいて、「東京、強いて言えば日本も、以前よりも多様になってきたのではないか」と思っていた。銀行でさえも安泰な職業ではなくなりつつある企業社会の変化、それに銀座を歩けば中国人、欧州人の旅行者を含めて実に多様な人が行き交っている。日本も少しは多様性が増したと思っていた。しかし今回米国に来て、「人種的、国土構造的、思考的、職業的、そして他者への影響度的……様々な意味での多様性は、米国が世界でもまったくもって突き抜けて大きい」と感じた。

ニューヨークのマンハッタンを歩く。ビジネスの街という位置付けだが、東京のように「サラリーマン的衣装」をまとった人は、ほとんどいない。「この人はどんな職業で生計を立てているのか」と疑問に思う人ばかりだ。恐らく“ハイパーメディアクリエーター”的な職業も多いに違いない。

実に多様な職がこの国には存在していると想像できる。その多様性と、世界全体をマーケットとしてみなし、それをリードする力が「富」を生む。今回旅したカリフォルニアやニューヨークには富があふれていると感じた。様々な意味の多様性において、やはり米国は世界にずぬけており、故に富を蓄積できているのだ。

トランプもその極一部

そしてその中で一つ思ったのは、ドナルド・トランプという実に特異な大統領をあえて選んだ先の選挙そのものが「多様性の選択」だったのではないか、という点だ。それまでの米大統領は、日本人の目から見ても理解が可能な範囲の人だった。主義主張の別はあるにしても。なので、先の大統領選挙では「きっとクリントンが勝つ」と、私を含めて日本のメディアでは99%の人がクリントン勝利を予測した。いや、それを欲したのだ。予測可能なので。

しかし米国は彼女を選ばなかった。それはトランプという人のほうが米国人の「多様性好み」に合致したからだと思う。政治家らしくない言動、相手を罵る歯に衣(きぬ)着せぬ発言、数々の女性とのスキャンダル。きっと東部や西部のエスタブリッシュメントでない人々の、心のどこかにあった「今までと違う大統領を」という期待に合致したのだ。

なにせ歴代の大統領は、選挙期間中は選挙受けする政策を掲げながら、いざ大統領になると従来の思考の範囲を出ない発言や行動しかしなかった。「らしさ」を求められてそれに応じ、公約をないがしろにした。きっと一部の米国人には「政治家は嘘つき」と映っていたはずだ。故に、既存の政治家には米国人のかなりの人は飽き飽きしていたのだ。

そこに出てきたのが、ドナルド・トランプというニューヨークのマンハッタンの不動産業を背景とし、テレビでもおなじみだった男だ。彼は「今までとは違う政治」を語る資格はあったし、それにかなりの国民がひかれた。

ヒラリー・クリントンも「女性」という大きな多様性の一片を持っていた。しかし彼女には「クリントン」という聞き飽きた名前が付いていたし、政治的主張は従来の範囲から大きく外れるものではなかった。彼女は女性という看板を外せば「繰り返し登場した過去の人物」の一人だった。

マーケットも“多様性好み”

米国をやや長い視点で見るときに重要だと思うのは、「トランプという大統領でさえ、この米国人の多様性好みのごく一部を構成するにすぎない」という点だ。日本人の多くは、彼に不誠実さや露骨なディールを見て、嫌悪感を抱く。しかし米国には、彼を面白いと考える人々が多いのだ。平気で嘘をついてきた歴代大統領を見てきただけに。トランプはその意味では選挙戦で言ったことは一生懸命実現しようとする。

重要な点がある。多様性の国であるからこそ、彼とは違って「嘘をつかない米国」もあるし、「寛容な米国」もあるという点だ。今でもトランプ反対の人々は多い。特に都市部に。しかし今の米国は国全体としては、多様性の選択でトランプを試しているのだろう。逆にいえば2年後か6年後かはわからないが、トランプとは違う多様性を持つ大統領を選択する可能性もある。

株式市場はどちらを選ぶだろうか。モノトーンさと多様性と。多分、多様性であり、それと表裏一体の「変化」だと思う。変化についていうならば、今回来て「米国はとっても変わった」と実感した。私は70年代の後半にニューヨークに4年間駐在して、それ以降もかなりの頻度で来ていた。しかし今回はちょっと間が空いた。多分2010年以来だ。「その間も米国は変わり続けていた」と改めて思った。

まあ車が立派になったこと。BMWのX5が小さく見える。日本でいえば全部が大型車。そして傷ついた車はほとんどない。それらの車が比較的静かに高速道路を移動する。ある意味、日本では味わえない圧巻さだ。

今の米国はとっても豊かだ。そもそもマンハッタンにホームレスを見かけない。カリフォルニア州のオレンジ郡というエンゼルスタジアムやディズニーランドに近いホテル群の一角という事情はあったが、街にはゴミ一つ落ちておらず、いつ歩いても安全だった。過去の米国ではあり得ない。またかつて米国の都市部の人々にあった「とげとげしさ」がない。ニューヨークもそうだ。セントラル・パークは本当に「安全な市民の憩いの場所」になっていた。70年代の駐在時にはかなり危ない場所だった。

米国を「変化し、かつ多様な国」と定義し、その中でドナルド・トランプという特異な大統領まで試していると考えれば、実に懐が深い国だといえる。そして簡単に変化も受け入れている。企業社会の変化は速い。としたら、株価の「米国に対する高い評価」はまだまだ続くだろうとも思える。

次回はもうちょっと具体的に、米国を論じてみたい。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。