1. いま聞きたいQ&A
Q

1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その5)

最終回は日本のバブル発生と崩壊までを説明いたします。

9.バブル発生の原因(三) ブラックマンデーとバブル景気

1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場が過去最大の下落に見舞われました。当時2200ドル台だったNYダウ工業株平均は、10月19日の1日だけで-508ドル、率にして-22.6%の下げを演じたのです。1万ドルを超えている現在ならば1日で-2200ドルの値幅に相当するほどの暴落です。

これをきっかけに世界中の株式市場が一斉に急落し、日本でも10月20日(火)には日経平均株価が-3836円(-14.9%)の下げ幅を記録しました。この時の暴落によって世界全体の株式市場がこうむった損失額は1.4兆ドルにも達したとされています。これが歴史に名を残す「ブラックマンデー(暗黒の月曜日)」です。

ブラックマンデーがなぜ起こったのか、さまざまな解説が試みられています。直接的には株価が下落した時に損失を限定するプログラム売買が一斉に作動したとされていますが、それは結果であって原因ではありません。真の原因はやはりアメリカの双子の赤字にたどりつきます。

プラザ合意からルーブル合意を経て、アメリカは先進国と協調して不均衡の是正(双子の赤字の解消)のために努力を続けてきました。しかしその試みはすぐに具体的な成果をもたらすというものではありません。特に1987年はアメリカも景気がよかったために、ドル安で輸出は増えたのですが輸入も拡大してしまい、貿易赤字はなかなか減少しません。1987年のアメリカの貿易赤字は▲1703億ドルと史上最高額を更新し、経常収支も▲1540億ドルの赤字を記録しました。1987年末のアメリカの対外純債務額は▲3682億ドルに達しています。

1987年は先進国で協調的に金利が引き下げられた最後の年です。1月は西ドイツが公定歩合を3.5%から3.0%に引き下げ、2月には日本が5回目の公定歩合引き下げ(3.0%から2.5%)を行っています。しかし肝心のアメリカでは、ドル安を背景に再びインフレ懸念が広がるようになり、4月ごろから長期金利が上昇し始めました。

この年の8月11日にポール・ボルカー氏に代わって、FRBの新議長にアラン・グリンスパン氏が就任しました。グリンスパン新議長はボルカー前議長の採ったインフレ抑制のための引き締め政策を受け継ぐことを表明し、実際に就任から半月後の9月4日には、3年5カ月ぶりの公定歩合引き上げ(5.5%から6.0%)を実施しています。

アメリカの利上げから1カ月が経った1987年10月14日、8月の貿易収支額が発表され▲156億ドルを記録しました。この数字はマーケットの予想を大きく上回っており、世界中がドルの下落と金利上昇を再び強く懸念する事態となりました。折りしもこの時は、日本をはじめ他の先進国もアメリカと似たような状況にあり、どの国もそれまでの金融緩和政策を変更して金利引き上げを検討し始めています。そしてこの時期に、インフレに最も神経質な西ドイツが短期金利の引き上げに踏み切ったために、それがきっかけでルーブル合意の政策協調の枠組みにきしみが生じたとの憶測を招いて、ブラックマンデーという世界的な株価暴落につながったのです。

ブラックマンデーの直後、FRBは市場に十分な資金を供給することと宣言して、比較的短期間に株式市場の混乱を収めることに成功しました。金利引き上げを検討していた西ドイツも、ブラックマンデーが発生したことによって利上げを見送り、87年12月4日には再び公定歩合の追加的な引き下げ(0.5%)を行っています(西ドイツの利上げは翌1988年6月に実施されました)。

しかし日本は最大の経常収支黒字国でもあり、アメリカ議会からの批判の矢面に立たされていたこともあって、金融引き締めへの転換が先進国の間では最も遅れました。日銀は1989年5月末になってようやく公定歩合を0.75%引き上げるのですが、これは西ドイツの利上げから1年近くが経過しています。

史上最低の金利水準、好景気の持続、円高による過剰流動性の発生、過熱する土地投機・株式投機、という経済情勢にあって、当時としては過去最低の2.50%という公定歩合が1987年2月から1989年5月まで2年3カ月も続けられたのです。この時の日本の景気は、1986年12月に底入れして、1991年4月まで53カ月にわたって拡大局面が続いていました。土地や株価は大幅な値上がりを続けていましたが、卸売物価は円高によって輸入品の価格が抑えられていたこともあって、表面的にはインフレが起きていなかったことも低金利が長期化した理由のひとつです。しかしそれ以上に、アメリカへの配慮が政治的にも強く働いて利上げが遅れたと言ってよいでしょう。

歴史に「もし」はありませんが、もしこの時期に日本が西ドイツと同じようにもう少し早く金融引き締めに転換していたら、日本の土地と株式を巡る投機熱はあれほどまで膨らむことはなかったのではないかと考えられます。しかし同時に、もし日本が早めに利上げを行っていたら、第2のブラックマンデーが起きていたかもしれません。それほどまでに1987年後半の国際金融界は緊迫した日々を送っていました。

日本の地価の高騰はブラックマンデーをほとんど問題視せずに続きました。公示地価での東京圏の商業地は、前年比の上昇が極めて大きかったために(1988年は+61.1%)1989年は+3.0%にとどまっています。しかし全国の商業地は1988年の+21.9%に続いて1989年も+10.3%上昇しました。同時に株式市場も「円高、金利低下、原油安」のトリプルメリットを背景に、ブラックマンデーの後も先進国ではいち早く回復。日経平均株価は1987年末の2万1564円が、1988年末には3万0159円、そして1989年末には3万8915円の最高値に向かって突き進んでゆくのです。

地価と株価の高騰をもたらした原動力は、日本の銀行業界に伝統的にあった土地担保融資に基づく信用創造メカニズムです。土地を担保におカネを借りて、その資金で新たに土地や株式を買います。新たに買った土地(株式)が値上がりすることを当て込んで、それを担保にしてまたおカネを借りて土地(株式)を買います。そのうちに最初に買った土地が値上がりしているので、値上がり分を担保におカネをまた借りて土地を買う、という無限の連鎖が80年代末の日本では横行しました。借金の返済は後回しにされ、おカネを貸す方も借りる方も、とにかく値上がりする前にできるだけたくさんの土地(株式)を買うことに猛進しました。

上場企業は銀行からの借り入れと同時に、株式市場で直接資金を調達する方法を選ぶことができます。高騰を続ける株式市場で公募増資や転換社債の発行を行って資金を調達し、その資金を使って株式で運用する。そうするとまた株価が上がるので、さらに追加で公募増資を行うという、こちらも無限連鎖のような錬金術が広がってゆきました。

土地バブルの頂点における逸話を集めればいくらでも出てきます。東京銀座4丁目の地価は1坪1億1200万円になりました。マンションは買えば値上がりするのが当然で、新規物件の抽選には人々が宝くじ感覚で参加しました。ゴルフ会員権や絵画も大幅に値上がりし、日本全体の土地の総額は1600兆円を超えてアメリカ全土の2倍にまでなりました。高級ブランド品や高級車が飛ぶように売れ、企業は大学卒の新入社員の確保に奔走しました。今から思えばあらゆる異常な出来事がごく日常的に起こっていました。

借金に借金を重ねる運用スタイルは、土地や株価が値上がりし続いている間はうまく回りますが、ひとたびそれらが値下がりに転じると、ダメージが何倍にも増幅されます。非常にリスクの高い運用方法ですが、当時の日本では誰もが値下がりする時のことを考えていませんでした。ブームというものは恐ろしいもので、80年代末はそれほどまでの強気心理が日本中を覆っていたのです。1989年3月末時点で、銀行やノンバンク、住宅金融専門会社が貸し出した不動産業界向けの融資残高は200兆円にも達しましたが、これは当時の名目GDPの40%にものぼります。

10.バブルの崩壊 土地担保融資の規制、株価暴落、不良債権問題

世の中に永久運動は存在しません。80年代後半の日本を舞台に起こった土地と株式の投機熱もいずれはピークを迎えます。それが人為的なものか偶発的なものかは問わず、いつの日かブームは終わりを告げることになります。日本の場合、株式ブームの頂点は1989年暮れに、土地投機ブームの頂点は少し遅れて1991年中ごろに訪れます。そして投機ブームの幕引きに大きな役割を果たしたのが、1989年12月17日に日銀総裁に就任した三重野康氏(前・日銀副総裁)です。

すでに1988年ごろから、地価の高騰はたびたび社会的に大きな問題を引き起こすようになっていました。再開発に必要なまとまった土地を確保するために「地上げ」行為が横行し、相続税や固定資産税の支払いに困ってせっかくの住居を泣く泣く売らなければならないという例も多発しました。

同じ頃に株式市場では「リクルート事件」が起こりました、1988年夏ごろに発覚した「リクルート事件」によって、未公開株のリクルート・コスモス株を巡る贈収賄の容疑で、リクルートの江副浩正会長やNTTの真藤恒会長、中曽根内閣の藤波孝生官房長官などが次々と起訴され、当時の宮沢大蔵大臣の辞任、竹下内閣の崩壊にまで発展しました。行き過ぎた地価と株価の高騰を何とかしなければならないという社会的な非難の声が日増しに高まっていったのです。

この時期、地価の高騰に歯止めをかける地価抑制策には、直接的な土地取引の規制、土地関連税制の強化、そして金融政策と3つの手段が実施されました。このうち直接的な土地取引の規制は、土地取引に監視区域制度を設けるなどの方法で1986年暮れから段階的に実施されています。

同じように土地関連税制の強化も何度かに分けて実施されたのですが、税制や土地取引制限などの諸策は、地価の高騰を抑えるにはさほど有効な手立てとはなりませんでした。地価が将来値上がりすれば、土地取引の区分も税制の強化もコストとしては微々たるものに過ぎないためです。本格的な地価抑制策は金融政策の発動まで待つことになります。

日本の金融政策は1989年5月末に引き締めに転じられました。その後、土地バブルの熱気が冷めるまで合計で5回、公定歩合が引き上げられました。内訳は1989年に3回、1990年に2回です。このうちの後半3回(89年12月、90年3月、90年8月)が三重野総裁によって行われたものです。三重野総裁は日銀副総裁の時代から、地価と株価の高騰に歯止めをかけようという意見を持っていたと言われます。

公定歩合は1989年5月より引き締られることになりましたが、より本格的な地価高騰の抑止策は1990年4月に導入された「総量規制」です。総量規制とは、大蔵省銀行局からの通達として1990年3月末に出されたもので、これによって全国の金融機関は、四半期ごとの不動産業界向けの融資残高を、貸出残高全体の伸び率以下に抑えることが義務づけられました。金融機関に対して無制限だった土地担保融資の拡大を直接抑えるという意味で、総量規制が地価高騰に対して大きな歯止めとなったのです。

株式市場は1989年12月の大納会の引け値で、日経平均株価が3万8915円の史上最高値を記録しました。バラ色の未来が約束された1990年の大発会、その時点から株価は急落を開始しました。90年2月25日には前年末の最高値から10%以上下落し、3万5000円を割り込みました。90年4月には2万8249円でひとまず底打ちして反発に向かうのですが、7月に3万3172円の戻り高値をつけた後は再び急落し、8月に日銀が第5次利上げを実施したことも手伝って、90年10月には2万0221円までの暴落となりました。

世間ではまだ土地取引は活発で、バブル景気も以前のままに続いていたのですが、ここまで来ると株式市場は事態の異様さを感じ取り始めるようになっていました。

1990年8月2日にイラクが突然、隣国のクウェートに侵攻し「湾岸危機」が勃発しました。イラク軍によってペルシャ湾岸の油田が爆破され、原油価格が急騰。当時としては最高値の1バレル=40ドル突破にまで値上がりしました。それまでの株価上昇を支えていた「低金利、円高、原油安」というトリプルメリットのうち、少なくとも低金利と原油高の2つはこの時点で消滅していました。さらに為替レートも1ドル=160円台の円安に振れており、日本は気がついたら「株安、円安、債券安」というトリプル安に直面することになったのです。

株式市場はその後、1992年8月に日経平均が1万4309円で下げ止まるまで3波にわたって下げ続けました。この時の下げ率はピーク比で-63%にも達し、昭和金融恐慌の-67%、1929年のアメリカ大恐慌時の-89%にも匹敵するものとなりました。

1991年ごろの政府や日銀の日本経済に対する見解はまだ楽観的なものでした。バブル景気が減速したことを政府が公式に認めたのが1992年2月になってからです。しかしすでにこの時には、その後10年以上にわたって続くことになる「失われた90年代」が幕を開けていたのです。

株価は90年の年初から急落に転じていましたが、地価の上昇はまだ余韻が残っており、本格的な下落は1991年に入ってからです。下落のきっかけは、土地取引そのものへの規制、税制の強化、総量規制に代表される金融政策が複合的に作用したためです。しかしすでに上がるところまで上がり切っていた土地投機ブームがついに終わった、というのが本当の要因なのでしょう。東京圏の商業地の地価は1983年初めを100とすると、ピークの1991年には341.5にも達していました。

商業地の全国平均地価は、1992年が-4.0%、1993年が-11.4%、1994年が-11.3%にも達し、同じく東京圏では1992年-6.9%、1993年-19.0%、1994年-18.3%というたいへん大きなものになりました。地価は下がらない、という土地神話がついに崩れたのです。この結果、土地と株価の値下がり損は1998年末にピーク比で▲1200兆円という途方もない巨額の損失をもたらすことになります。

後に残されたのは借金の山です。借り入れによって土地投機を行っていた不動産会社、建設会社、ゴルフ場開発会社、ノンバンクは次々と返済不能に陥り、倒産の危機に直面してゆきました。株式運用に失敗して経営が立ち行かなくなった上場企業も続出しました。しかしそれ以上に深刻だったのが、土地を担保に融資を行った銀行やノンバンクの中で融資の焦げ付き(回収不能)です。これが90年代後半の不良債権問題、金融機関の大型倒産につながってゆきます。

1980年代後半の日本を舞台として起こった土地と株価の投機熱は、その事後処理にほぼ15年間を費やして現在は解決しつつあります。ここに至るまで多くの企業や個人が登場し消えてゆきました。国中を巻き込むような熱狂的な投機熱はいつどこでも発生すると言われます。バブルはふり返ってみた時に初めてバブルと判る、とも指摘されます。歴史の教訓を生かすしかありません。たいへん長くなりましたが、以上で「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?」という質問への説明を終わります。

参考
「政策協調下の国際金融」 黒田東彦、金融財政事情研究会、1989年
「概説現代バブル倒産史」 北澤正敏、商事法務研究会、2001年
「平成金融不況」 高尾義一、中央公論社、1994年

ご注意:「いま聞きたいQ&A」は、上記、掲載日時点の内容です。現状に即さない場合がありますが、ご了承ください。

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