日銀総裁の異例発言が市場で曲解された?
要人の発言が相場を動かすことは珍しくありませんが、先ごろの事例はいささか珍しい部類に入ります。今年(2015年)6月10日、日銀の黒田東彦総裁が国会で以下のように発言しました。
「ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れていくことは、普通に考えるとなかなかありそうにない」
日本の為替政策を所管するのは財務省であり、所管外の日銀が為替相場の水準に言及するのは異例ですが、それ以上に意外だったのは市場参加者がこの発言を円安への強い“けん制”と受け止めたことです。外国為替市場では総裁発言の直後から円・ドル相場が急進し、1ドル=124円台半ばから122円台半ばへと一気に2円も円高が進みました。
円の実質実効為替レートとは、世界中のさまざまな通貨に対する円相場を貿易額に応じて加重平均し、物価変動の影響も加味して調整した値です。最近では1973年以来の低水準にありますが、長年のデフレによって日本製品の価格が下がり、その分だけ対外的な価格競争力が上がったため、実質的に円安が進んだとみなされているわけです。
円の実質実効為替レートが歴史的な低水準にある以上、ここからさらに下がる(円安になる)余地がそれほどないと考えるのは当然のことです。加えてこのレートは日本国内でインフレが進むと上がる(円高になる)ので、日銀が16年度前半頃までに2%の物価上昇率の実現を目標として掲げている以上、黒田総裁がそれに沿った見通しを語るのもまた当然のことです。
結果として黒田発言は、実質ではなく名目の円相場に関するものと曲解されてしまった格好ですが、当の黒田総裁に何ら意図がなかったのかといえば、そうでもなさそうです。発言の真意については諸説ありますが、企業収益の好転が賃上げなどを通じて景気や物価を押し上げるという好循環を維持するために、家計や中小企業などの重荷となる名目為替レートの円安ペースを落としたかったと見る向きが多いようです。
国内の物価上昇が今後の円相場を左右する
一般に名目為替レートは、短中期では内外金利差や国際収支などの影響を強く受けるものの、長期的には「購買力平価」に沿って推移するといわれています。購買力平価とは、その通貨でどれだけのモノを買えるかという購買力をベースに為替相場の水準を測る物差しにあたります。
特に市場関係者の間でよく用いられるのが「相対的購買力平価」です。国全体の物価動向を2国間で比較することによって通貨の相対的な価値を求めるもので、物価に上昇圧力が加わる国では通貨に下げ圧力がかかり、物価に下落圧力が加わる国では通貨に上げ圧力がかかります。こうした物価上昇率の変化が長期的な相場トレンドを形成するというのが、為替相場を考えるうえでの標準的な理論になっているのです。
例えば日本と米国の企業物価指数を用いて算出した円とドルの相対的購買力平価をみると、過去40年以上ほぼ一貫して円高・ドル安方向に動いてきています。これは米国の物価上昇率が日本の物価上昇率より高い状態がずっと続き、ドルの円に対する価値が低下し続けたことを意味します。その間、実際の名目為替レートも短中期ではトレンドラインをまたぐ上下動が見られるものの、長期では購買力平価に回帰する動きを繰り返してきました。
現在、市場ではFRB(米連邦準備理事会)が利上げを開始する時期に大きな関心が集まっています。FRBが利上げを実施する一方で日銀が金融緩和を継続すると、日米の金利差が拡大して円安要因になります。これは前述したとおり、短期的な為替相場の変動要因です。それでは、FRBの利上げ後に日銀も金融緩和の出口戦略を進めて利上げにこぎつけた場合、その後の為替相場はどうなるでしょうか。
それぞれの利上げペースもあるため一概にはいえませんが、内外金利差が縮小するという観点からみれば円高要因になります。しかしながら、その時点で日銀の目論見どおり国内で2%程度の物価上昇率が実現し、日米の物価上昇率格差が縮小に転じていた場合、購買力平価に円安・ドル高方向の圧力がかかるため、名目為替レートにおいても長期的な円安要因として働きます。
このように考えると、冒頭に挙げた黒田発言はなかなか意味深長であることが分かります。物価上昇は実質実効為替レートにおいては円高要因となりますが、購買力平価すなわち名目為替レートにおいては逆に円安要因となるため、足元のハイペースな円安進行に半ば間接的な形でくぎを刺しながら、同時に将来的な円安を示唆しているようにも聞こえるからです。
いずれにしても、日本が「失われた20年」を経てデフレ脱却に向かうなか、物価上昇が今後の円相場を左右する大きなカギを握っていることは確かでしょう。