金融そもそも講座

関税合意、世界経済に“歪み”生む—産業投資は米国傾斜

第386回 メインビジュアル

「歪み」という単語が、全てを言い表せる適切な表現かどうかは分からない。人によって良くも悪くもある。しかしトランプ関税政策下の世界経済を考えた時、確かにそこには「歪み」が生じる結果になると思う。何を意味するかと言うと米国と各国との間で決められた関税合意付随の「対米投資」が規模で非常に大きく、その総額は巨額に上るため。世界のヒト、モノ、カネの動きを変えると思われる。

特に大きな影響が出るのは、産業投資とそれに伴う資金、人材、素材の流れだ。後で詳しく述べるが欧州連合(EU)や日本、韓国などは高率関税で脅された故に、巨額の「対米投資」を米国に約束した。その投資は少なくともトランプ米政権の残り3年半は続く。かなり長期だ。米国は「各国が約束を守らなければ関税率を引き上げる」(ベッセント米財務長官)と脅しているから、各国は投資約束を反故に出来ない。

言えることは、米国とこれから「関税協定」を結ぶ国々(中国を含む)の分を含めて、ヒト、モノ、特にマネーの「米国に向かう大きな波」が起きるということだ。それでも、米国が「製造業大国」に簡単に戻れるとは筆者は考えていない。それは既に過去のコラムで繰り返し説明してきた。関税のみで製造業を復活させることは不可能だ。

しかし効果の有無は別にして、米国には膨大な投資資金と、それに伴う人材や技術が集まる。この米国への資源移転は、米国経済ばかりでなく世界経済の形も変える。米国に投資が優先的に回される分だけ、各国では投資が控えめになる。それが産業・経済投資の減少を招き、雇用や所得にまで影響を与えるリスクがある。逆に米国には資本が流入し、そこには設備投資が発生し、従って雇用も生まれる。かなりの非対称だ。

各国が巨額投資を約束

EU、日本など米国の主要貿易相手国が約束した対米投資は、これまでに例のない規模だ。トランプ米大統領が自慢たっぷりにSNSなどで公表したものを見ると、

  • 日本=5500億ドル
  • EU=6000億ドル
  • 韓国=3500億ドル
  • UAE=1.4兆ドル
  • サウジアラビア=6000億ドル

などとなっている。アラブ首長国連邦(UAE)は「今後10年」という長い期間設定だ。東南アジアのいくつかの国も既に米国との関税交渉をまとめており、それに伴う対米投資の規模も大きい。従来の民間の国際投資は、普通は世界各国にまたがって「出し手」と「受け入れ国」が入れ替わる「網の目」模様になることが多いが、今回の場合はほぼ全てが「米国向け」。

ここに示した数字の解釈を巡っては、米国と当該国の間では齟齬がある。例えば日本の5500億ドルについて米国は、「米国の指示の下」で投資先が決まるという説明をしている。しかし日本側は「5500億ドルの大半は融資や融資保証の枠」であると説明。EUに関しては、「既存の年間1000億ドル超の投資額に加えて」とされており、その大部分は「主に民間企業の投資の積み上げ」と説明している。

実はトランプ関税交渉の渦中で各国がいくらの「対米投資」を約束したのかについては、公表されていない不明な部分が多い。しかしホワイトハウスがまとめた「国別+企業」をあわせた世界各国・企業の対米投資総額は既に「5.1兆ドル」に達している。ちなみに日本の2024年の円建てGDPは609兆2887億円。始めて600兆の大台に乗ったが、それを現在の為替相場(147円台の半ば)で割ると4.15兆ドル前後だ。関税合意がらみで米国に集まるマネーが、いかに巨額なのかが分かる。

米国に流れるお金は「投資」だけではない。各国は米国から「様々なモノを買う」という約束もしている。高率関税を提示された国々は対米貿易黒字を出している。それを縮小させる方法を米国に示さなければならない。トランプ氏の説明によると、インドネシアはエネルギー150億ドルと農産品45億ドルの米国からの購入を約束、日本は80億ドルの農産品、韓国は1000億ドルのエネルギー、EUは7500億ドルのエネルギーをそれぞれ購入する予定だ。

トランプ米大統領の事なので、話を米国国民に大きく見せるため既契約分まで上乗せして発表しているケースもあると思われる。各国が購入を約束しているボーイングの機数などはかなり怪しい。しかし「米国に向かう大きなお金の流れが出来つつある」というのが重要だ。マネーが動けば、ヒトや技術も動く。ということは、今後3年半の世界では「米国にとっての成長要因」が増え、その一方でその他の国では成長要因を削がれる危険性があるということだ。

増える米国の成長要因

経済活動はいつも「複雑系」だ。様々な要因が最終的にはどう玉突き現象を起こすかは分からない。各国の巨額対米投資によって、商品(例えば半導体製造装置など)の中には対米輸出が増えるものもあるだろう。しかしトランプ関税下の世界では、枠組みとして「投資・貿易で米国にマネーが集まる環境」が醸成されると考えるのが自然だ。

トランプ米大統領の関税政策の一つの狙いは、彼に投票したような「ヒルビリー」(米国南部やアパラチア山脈周辺の田舎に住む白人労働者階級)と呼ばれる人々の雇用を増やすことにある。AIが急速に普及する時代について行けなかった人々に、再び「製造業の職」を与えること。発表されている諸外国の「米国工場」(新設、増設を含む)はかなりの規模に上る。そして、そこでは実際に職が生まれるだろう。一部はロボットが採用されるだろうが、それでも今までよりは職が増える。

職が増えれば給与が発生し、それは消費に回る。よってお店が増える。つまり経済の好循環が生ずる可能性がある。もしそれがトランプ氏の言う「新たな黄金時代」というなら、それに相当する地域は米国のいくつかで生まれるだろう。それによっても「経済格差」(地域、持つ技術の差、テクノロジーを使いこなす術など)は残る。おそらく貧富の格差もそれほど縮まないだろう。しかしトランプ氏にとっては「選挙民との約束を果たした」ということが重要だ。

この資本、技術、人的・物的資源の大きな米国への流れが、米国の経済成長率には間違いなくプラスだ。マーケット効果も大きいと思われる。米国企業の株はしばしば買いの対象になるだろう。最近の例だと、ソフトバンクは米国政府の動きと歩調を合わせて「3000億円の対インテル投資」を打ち出した。その直後の株価の動きは「インテル高(6.5%前後)・ソフトバンク小幅安」だった。

世界的なドル需要

こうした大きな流れの中で、基軸通貨である米ドルへの影響を考えてみたい。結論から言うと、「安いドルは拾われる可能性が高い」という事だ。

為替に影響を与える要因は多い。金利はその一つだ。その金利は、米国では「下げ」の方向だ。トランプ政権の利下げ圧力は逆効果の面もあるが、見逃せないのは住宅などの市場で米国経済の弱さが出てきていること。一方で「関税引き上げでインフレが起きる」という説は、今現在では外れている。輸入や販売などの関連企業が、少なくとも当面は負担増の一部を飲み込んでいるためと思われる。FRB(米連邦準備理事会)の内部でも「利下げ派」が勢いを増している。

一方日本では「利上げ」への環境整備が続く。ベッセント氏も余計なお世話なのに、「日銀は利上げすべき時期に来ている」といった外圧を加える。物価高が続く今の日本経済を見ると、近い将来の利上げ(0.25%)は十分予想される。可能性は大きくないが、日銀の9月18、19日の金融政策決定会合にもあるかも知れない。一方の米FOMC(米連邦公開市場委員会)は同月19、20日に開催される。この会合では利下げ観測が強い。「日本の利上げ」「米国の利下げ」(ともに0.25%)がほぼ同時に行われる可能性もある。その場合は、日米政策金利は0.5%縮小する。

そうした環境を考えると、ドル・円などには「(ドルへの)下げ圧力」がかかってもおかしくない時期だ。しかしこのところのドル・円はむしろ140円台(10円単位で見て)の後半で安定している。金利ファクターから見ればドルが下がって自然なのに同通貨が比較的安定しているのは、単純にドル需要が強いためだと考えている。

その一つの要因は、米国に約束した日本政府といくつかの日本企業による「対米投資」だ。5500億ドルがそのまま実需のドル需要になるわけではない。しかしトランプ関税の影響で実に多くの日本企業が「対米投資」を発表している。輸出に基軸をおく日本企業には、米国市場を失うことは許されない。自動車各社、ソフトバンクなど数多い。公表はしないが関税回避で多くの日本企業が投資を計画しているだろう。

日本だけではない。EU、韓国など対米投資を約束した多くの国で、「安いドルは買いたい」という需要が多いだろう。しかも重要なのは、これらのドル買いはトランプ政権下では「ほぼ一方通行」という点だ。その多くが「実物投資」に関わるもので、短期にそれぞれの国に戻ってくる資金ではない。ホワイトハウスの言う5兆ドル強がすべてドル買いにつながるとは思わないが、今の世界では「大きなドル需要」が生じていると考えるのが自然だ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。