金融そもそも講座

波乱が残した教訓、今後に影響

第362回 メインビジュアル

過去1カ月間の世界の株式市場の動きをチャートに描き出してみると、7月末を頭に8月の第1週、第2週にかけて大きな「クラッシュ」(相場陥没)が見られる。株価指数が大きく落ち込んだ。

下げは急激で、日経平均株価は1日に4450円強も落ちた。期間中の安値は3万1000円台。去年からの高値(4万2000円台)から見て著しく低い。為替市場も大荒れで、日本円はこの間にほぼ全通貨に対して急騰。ドルは一時の162円台から141円台に20円近く価値を落とした。

一体何が原因で起きたのか。それを将来への教訓にするとしたら、我々は何を学び、今後のマーケットを予測する際にどう参考にすべきかを考えたい。筆者の長いマーケットとの付き合いの中でも、今回のマーケット波乱はあまり例のない速度・規模感のものだった。

8月の後半から米国の株式市場は混乱前の水準をほぼ取り戻している。しかし日本市場は暴風雨前の水準を取り戻していない。筆者はそこに日本市場特有の“恐れ”“足枷(あしかせ)”と、日米経済の置かれた環境の差を感じる。

このコラムを読まれている方の中にも、「今回の市場混乱は想像を超えていた」という方が多いだろう。中には手痛い傷を負った方もいらっしゃるに違いない。マーケットは常に流動的ではあるが、同時に「国民や投資家の大きな資産が運用されている場」でもある。

よってマーケットに大きな影響を与える決定を下す向き(主に金融・財政当局)は、他に政策目標があっても市場との対話を怠らずに、予想外の驚きを与えて株式相場を大きく下げてはならない。株式の資産価値の大きな縮小は、一番大事にしたい経済に打撃となるからだ。

日銀の予想外利上げ

今回の大きな混乱を招いた要因は大きく2つだ。1つは7月末に開かれた日銀金融政策会合での利上げ決定。もう1つはその直後の8月2日に発表された米7月の失業率の予想外の弱さ。

前者について。日銀の声明文は「無担保コールレート(オーバーナイト物)を、0.25%程度で推移するよう促す」となっている。これは今年3月の同会合で、市場調節方針を「0~0.1%程度で推移するよう促す」としたマイナス金利解除措置の次段階の措置。正真正銘の利上げだ。

重要な点は、多くの市場関係者が「今回は見送り。もう少し正当化理由がそろうまで日銀は待つだろう」という見方の中での決定だったという事。予想外の利上げで筆者も驚いたし、「乱暴かもしれない」とも思った。利上げ決定には2人(中村委員と野口委員)が反対した。声明文に次のように付記されている。

中村委員は、「次回の金融政策決定会合で法人企業統計等を確認してから金融市場調節方針の変更を判断すべきであり、今回はそうした考え方を示すにとどめることが望ましい」として反対した。野口委員は、「賃金上昇の浸透による経済状況の改善をデータに基づいてより慎重に見極める必要があるとして反対した」

この2人の委員の意見の方が、マーケットの大方の見方に近かった。市場に一段と先行き不安をもたらしたのは、植田総裁の声明後記者会見だ。今回利上げに踏み切った理由について「4月以降のデータがある程度まとまって分析できることに達した」「少しずつでも早めに調整した方が後が楽になること」と述べた。植田日銀総裁のこれまでの慎重居士的スタンスは消えて、筆者には「前のめり」「変節」とまで映った。

そして米失業率の数字

総裁はさらに、「(物価上昇率が)2%からさらに上にいくリスクを考えるとこの辺でと思った次第だ」と説明し、景気への影響に関しては、「0.25%に上がったといっても、非常に低い水準であるし、実質金利は非常に深いマイナスだ。強いブレーキが景気にかかるとは考えていない」との認識を示した。今後に関しては「(経済・物価の)見通しが見通し通り、あるいは見通し対比で上ぶれる場合」はさらなる利上げもありうるとも述べた。

これをマーケットは、「日銀は政策金利の引き上げを短いスパンで継続実施する意図を持つ」と捉えた。それからは、長く続いていた「(日本の政策金利の)0.5%の壁」突破も感じさせた。これがマーケットにさらなる驚き、恐怖を呼んだ。

生じたのは、為替市場で積み上がっていたドル・ロングの急激な巻き戻しと円相場の急騰であり、大幅円高転換を嫌気した日本株の急落だ。マーケットの大方の参加者は、「植田総裁は、春の円安許容発言を打ち消すために円高誘導を金融政策で試みている」「政治圧力故の姿勢転換」と考えた。

タイミングも悪かった。日銀の利上げのすぐあとに発表されたのが7月の米雇用統計。雇用者数が予想外に大幅に少なく、失業率も上昇する内容だった。「米国経済は今後ソフトランディング」とのそれまでの見立てが大きく狂い、「米国はリセッションに向かっているかもしれない」との解釈さえ広かった。これにはまずニューヨーク市場が反応し、それが世界的な市場混乱につながった。「1987年のブラックマンデーを上回る市場波乱」と世界中のメディアが報じた。

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マーケットは現状、かなり安心感を取り戻している。米国では「景気は底堅い」ことを示す統計がその後いくつも出て、しかもインフレは落ち着きつつある。再び「米国経済はソフトランディング」との見方だ。日本では植田日銀総裁の発言を打ち消す意図をもって、内田副総裁が「金融市場が不安定な状況で、利上げをすることはない」と火消しに走った。

日本市場に残る“恐怖”

しかし日本の市場に「急落の記憶」は深く刻まれた。内田副総裁が「混乱時に利上げはない」と言ったが、「では落ち着いたらまた利上げをやるのか」という疑念は残る。日銀はそれ以降は口を開かない。なぜなら、この件に関して言葉を発することは、今後の自分の手足を縛ってしまうからだ。故にマーケットに記憶と恐怖が残り、相場は戻しきれない形となる。米VIX指数は大きく下がったが、日経平均ボラティリティ・インデックス(恐怖指数)は高いままだ。

筆者はマーケットの混乱が始まった当初の8月2日に、自分のHPにしているnoteのページに「あまりにもチグハグ」という文章をアップした。

『もしかして、日本の通貨当局は162円台まで行った円安が140円台の後半にまで戻ったことで、「今回の為替オペレーションは大成功」と考えているのかもしれない。しかしそうだろうか。(略)日本の株価は日経平均で42000円台から36000円割れまで落ちた。株価の下げは当局が強くしたい筈の日本経済を弱め、そして上げたいはずの物価に対して下方圧力となる』(数字は当時)

その思いは今でも同じだ。行きすぎた円安を是正したかったという当局の意思は分かる。しかしその意図が結果的に、政府肝いりで始まった新型NISA参入の投資家の信頼に大きな打撃を与えた。「米国の予想外の雇用統計のせい」とは言い切れないだろう。

予想外の利上げに踏み切る前の、当局と市場との対話は十分だっただろうか。確かに日銀の国債購入減額に関する話し合いはしていたようだ。しかしマーケットのあれほどの混乱は、対話がもう少しうまく、幅広に行われていれば避けられたのではないか。

恐らく円安是正も含意した今回の利上げ。為替は円高になったが、その代価として株式市場に大きな傷痕を残した。筆者は根本的な原因は、日本の経済政策が長きにわたって「日本経済を本当に強くする」という一貫性を欠いていたからだと考えている。この問題は次回以降に採り上げたい。

確かなことは、チグハグな政策を繰り返していたら日本経済に取り返しが付かないことになってしまうという点だ。「日本の利上げはまだ小幅だし、実質金利はマイナス」だという日銀の思いは分かる。しかし世界各国が利下げに向かう今になっての日本の「利上げ」志向。水準よりもベクトルの齟齬(そご)は大きな不安材料で、今後日銀は利上げに慎重にならざるを得ないと筆者は考える。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。