金融そもそも講座

中銀とはけんかしない

第314回 メインビジュアル

マーケットでひそかに言い伝えられている格言がある。それは「中銀とはけんかをしてはいけない」というものだ。前回の原稿執筆時点と比較して、マーケットの環境は様変わり。一気に弱気に転じた。それはマーケットが中央銀行、具体的にはFRB(米連邦準備理事会)のパウエル議長の意図を勝手に推察して楽観論に傾いていたのを、ご本人によって強く矯正された結末だと理解できる。

前回の原稿で前書きに『マーケットの一部では「買われ過ぎ」(over-bought)との見方も出ていて、さすがに反落局面も見え始めているので、読者の方々がこの原稿を読む頃には、ちょっと違った局面になっているかもしれない』と書いた。実際に8月末の環境は2週間前とは大きく変化した。

「マーケット、あるある」の展開で、だから市場とはいくら付き合っても飽きることはない。今回はなぜ「中央銀行に逆らうのが良くないのか」「ではどうしたら良いのか」という観点から原稿を書いてみようと思う。新しく投資を始めた方は今後、今回のような局面を何回も経験することになると思われるからだ。

ジャクソンホール会合

舞台は米国中西部ワイオミング州ティトン郡のジャクソンホール。同名の渓谷にある人口が一万を超えたくらいの町だが、毎年晩夏と呼べる時期に世界中のセントラル・バンカーが集まる。そして非常に重要な会合を持つ。いつも注目されるのだが、今年はFRBが政策を大きく動かしている最中なので特に注目された。日本銀行の黒田総裁も出席。

講演が一番注目されていたのはFRBのパウエル議長だ。過去に例のない「通常(0.25%)の3倍の0.75%の利上げ」を開始していて、今後どうするかにマーケットの関心が集まっていたからだ。二つのシナリオをマーケットは描いた。

一つは「米国のインフレ統計にも頭打ちの兆しがある。よって早ければ9月末(20日と21日)のFOMC(米連邦公開市場委員会)では利上げは0.5%幅に縮小される可能性があるし、その後年末にかけてはほぼ確実にFRBの引き締め姿勢は緩和する」「来年には利下げも」というもの。

二つは「それは楽観的すぎる。今のインフレは供給サイドの要因が多い。FRBの引き締めの効果(主に需要に影響)は限定的で、その分引き締めを長く続ける必要がある」

マーケットは7月から徐々に前者の認識を強めた。それに伴う世界の株式市場のサマー・ラリー(夏場の相場上昇)だった。しかしパウエル議長はジャクソンホールでこの見方に明確に「ノー」を突き付けた。パウエル議長は、「景気や家計に痛みを伴っても、インフレ抑制をやり遂げる」と強烈パンチを放ったのだ。その後のマーケットは「敗戦処理(相場の高値からの大きな反落)」に追われた。

マーケットが改めて思い知ったのは、「安易に中銀の意図を勝手に都合良く解釈するのは間違い。慎重になるべきだし、今後もFRBの意向を十二分に読む必要がある。中銀とは戦えない」というもの。

固く、変わらない政策決意

マーケットと中央銀行が対峙したとき、なぜ中央銀行がほぼほぼ勝つのか。それはひとえに中銀サイドには「当面の損益を無視し、財政的にも非常に大きい国家をバックとできる強さ」があるからだ。対してマーケットの意思は変わりやすく、かつもろい・臆病で自分(誰であれ投資家)以外の動きに時に過敏にならざるを得ない。

マーケットサイドは、お互いに「相手の裏をかいて自らがもうける!運用で成績を上げる!」ことを使命としている。そのためには全く鷹揚(おうよう)に「株価の長期的上昇」を信じてどんと構えるか(個人投資家はそれができる)、そうでなければ「他の投資家より素早い動き」でもうける必要がある。つまりマーケットサイドは常に不安な状況に置かれている。動かせる資金の規模も国に比べれば小さいし、「期間損益」(一定の運用期間での結果)を抱えている。

セントラル・バンクは「政策としてのマーケット行動」なので、いったん始めると変えることはない。それが損失となろうとなかろうと、政策として行動(売り介入や買い介入など)を続ける。それはマーケットの不安定な心理状態を一気に動かすに十分パワフルだ。マーケットは中央銀行の強い、そして固い意志の前では羊のように同じ方向に動かざるを得ないケースも多い。そういう場面を筆者はこれまで何度となく見てきた。

もっとも中銀が「常に勝つ」とも言えない。例えば1990年代のイギリスのポンド危機。正確には、筆者がまだ為替ディーラーだった92年の9月16日だが、イングランド銀行とファンド筋(ジョージ・ソロスを中心)の戦いでは、ソロスが見事な勝利をものにした。しかし筆者の知る限り、マーケットサイドの中銀との短期的な戦いでマーケットが勝利したことはまれだ。

今後の政策はデータ次第

なぜソロスはあの時、中銀に勝ったのか。それは当時のイングランド銀行の「ポンド防衛政策」があまりにも同国経済の現状から乖離(かいり)していたからだ。それも「あるラインを守る」という守勢の政策意図で、その無理さ加減を、ソロス中心の投資家グループから見透かされた。このグループの結束は固かった。イングランド銀行の思い違いが明確だったからだ。それが勝因。しかしソロスの勝ちは、珍しいからこそ今でも思い出される。

そもそもマーケットの人間は、「今中銀サイドは何を考えているのか」を考えることが仕事の大きな部分だ。中銀トップや幹部の発言、その過去との差異を詳しく分析するのは、アナリストの仕事で、そういうアナリストは新聞にもテレビ・ラジオにも頻繁に登場する。それは今後も変わらないだろう。それほど中銀はマーケットで大きな存在なのだ。

マーケットサイドが勝てるチャンスがあるとしたら、それは中銀の方針があまりにもタイミングを逸し、中銀自身にも方針を貫く決意が揺らいでいる時、はたまた政治が動いた時だ。最近の日本でいうと、「そうかもしれない」と一部の投資家から思われたのは、新発10年国債利回り(長期金利)に対する日銀によるイールドカーブ・コントロール(YCC=長短金利操作)政策。

具体的には目標レンジ上限0.25%を巡るもの。海外投資家の一部はあえてチャレンジした。しかし今は、この直近の攻防で日銀は勝利したように見える。国債という中央銀行がかなり思う通りに動かせる商品が対象だったからだ。

だから一般的に言えるのは、中銀とはけんかをしてはいけない。ただし筆者がそれを、「マーケットでひそかに言い伝えられている」格言と書き出したのは、「常にマーケットが負ける」とは市場が考えていない故であり、実際に中銀の政策があまりにも現実と乖離した時には、マーケットは中銀に勝利しうる。それは経済全体がゆがむのを避けるのに役立つ。

今の世界的なインフレの高さは、中銀に「インフレ抑制」の強い、当面は揺るがない決意を改めて与えているように思う。そこを今回はマーケットが読み違えた。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。