金融そもそも講座

なぜ今、世界的インフレ懸念

第291回

「なぜ急にインフレ懸念」と思われている方も多いだろう。そもそもつい最近まで世界には「デフレ懸念」が残り、各国の中央銀行はインフレ率を目標の2%に引き上げることにさえ苦労していた。それ故の超緩和姿勢の長期維持だった。しかも新型コロナウイルス禍以降の世界では、景気は跛行(はこう)的だが全般に悪く、懸命の財政・金融政策で支えられているのが現状。いくつかの国で経済復調の目は出ているが総じて弱く、支えをまだ外せない。

しかし今世界のメディア(マーケット関連記事)で目立つ言葉は「インフレ懸念」だ。例えば9月15日の日経新聞のウォール街ラウンドアップの見出しは「なお拭えぬインフレ懸念」となっている。懸念だけではない。主要国ではないものの、世界の一部の国の中央銀行は政策金利の引き上げを発表している。チェコや韓国だ。

では市場を見る我々として、この「急速に台頭してきたインフレ懸念」をどう見れば良いのか。そもそもどのような背景からこの懸念が広まっているのか。そしてその懸念はどの程度持続し、場合によっては深化(深刻化)するのか、でなければいずれ離散するのか。今回はマーケットを長期的に見るためにも、この点を少し考えてみたい。

いくつかのインフレ現象

まず今何故「世界的インフレ懸念」の台頭なのかを考えてみる。関連現象として生じているのは次のようなものだ。

  • 「世界各国でのインフレ関連統計の、しばしば大幅な上昇」
  • 「中でも中古車、木材、銅製品など一部の製品での品不足とそれに伴う大幅値上がり」
  • 「一部国での景況感改善と、中銀によるテーパリングや利上げの動き」

こうした動きから我々の、そしてマーケットの記憶に刻み込まれている「インフレへの心配」がよみがえっているのは確かだ。この懸念は目新しいし、世界経済の現状とは齟齬(そご)する面もあるからメディアでも数多く取り上げられ始めた。我々世代には「インフレ」は体験だが、デフレ状態しか知らない若い世代にとって「インフレ懸念」という単語は目新しい。故に頻度高く出ていると言える。

火のないところに煙は立たない。火元と考えられるものは以下の通り。

  • 1.コロナ禍で各国が過去に例のないような規律逸脱気味の拡張的財政・金融政策を実施している
  • 2.コロナ禍で東南アジアなどでの製品・部品供給網が寸断され、その結果供給サイドから価格上昇圧力が生じている
  • 3.米中対立が激化し、発火点の一つとも言える半導体などハイテク製品の分野で供給のボトルネックや途絶が生じて自動車業界など各所で品不足が出ている
  • 4.コロナ禍によって生活、仕事のパターンが世界的に変わったことで、「不足品」(例えばPC)と「余剰」(旅行関連業施設・労働力など)が生じ、「不足品」の値上がりの方が目立つ事態が生じている

などだろう。「1」は世界的なインフレマインドを醸成したし、「2」は今日本の自動車メーカーが直面している最大の問題。「3」は長期的に見れば台湾(世界的な半導体の生産基地 中国は“不可分の領土”と主張)を巡る情勢の根っこだし、「4」はリモートワーク増加など。

デフレ懸念が急に「インフレ」懸念に

そもそもコロナ禍発生から2年ほどして「インフレ懸念」がじわり広がる前は、世界的にディスインフレ懸念が強かった。故の世界的な金融政策の超緩和スタンスだ。その時点では「財政はもう限界だから」ということで制約的にしか発動されておらず「中銀に頼るしかない」という状況だった。なので景気悪化が必定のコロナ禍発生時点では、むしろデフレ懸念の方が強くなったと記憶している。

しかしコロナ禍発生からしばらくして、大胆な財政政策が世界各国で発動されるに至る。国民の支持(投票)がなければ成立しない各国の政府・首脳は「ここで全力を出さねば(存在理由を問われる)」と決意。あの財政規律第一のドイツでさえも赤字覚悟の国費投入による各種政策を打ち出した。政策発動が機敏な米国は「国民一人一人に15万円」といった大盤振る舞いをした。その小切手は1970年代に米国で生活していた筆者の元にも送られてきた(送り返したが...)。

振り返ると「緊急社会政策的プレッシャーから、財政政策まで各国一斉に拡張的になった」ということが「インフレ懸念台頭」にはやはり大きかったと思う。そして今も各国では財政政策が拡張的であり、喧伝(けんでん)的に金融政策の超緩和状態からの脱却(テーパリング、小幅な打診的な利上げ)が一部で始まっているにすぎない。こうした各国の政策スタンスから「インフレ懸念」が高まる背景は政策面から十分あると言える。

まだ行き過ぎ?

コロナ禍前の世界的なディスインフレ状況は ①市場経済領域の拡大による労働供給の裾野の広がり ②それに関連した世界的な分業体制、ロジスティクス充実による適地廉価生産 ③加えての技術革新での生産効率の引き上げ(コスト引き下げ)④SNS(交流サイト)などネット技術拡散による価格情報の平準化——などを背景とした。

指摘できるのは、そのいくつかが「部分的な修正局面」に入っていると言うことだ。中国と米国の敵対的な「競合関係」は、特にハイテク分野での世界的流通に数多くの寸断やボトルネックを作ってしまった。半導体(素材を含む)には入手可能性と価格で大きな打撃となっている。それはディスインフレ時代には想定されていなかった。

SNSなどネット技術拡散は情報の流通速度を高めたが、実際には特に米中間で情報の流通が大きく阻害されている。互いに「情報の囲い込み」が進む。バリアも数多くなった。この情報の一部途絶やコロナ禍(一部の国での生産滞留)もあって、世界的ディスインフレの最大の貢献要因である「適地廉価生産」は、一部について事情が変わってきている。各国は多少高くても「自国製ないし同盟国製」を優先する方向となった。

問題なのはそれらが「一時的なゆがみ」なのか、かなり長期間続くものなのかだ。2つに分けることができる。コロナ禍関連と米中対立関連。前者は「ワクチン 対 コロナ」の図式がどう変化するのか。ワクチンはデルタ株に対しては感染防止の面では必ずしも盤石ではない。ブレークスルー感染が特に海外で頻発している。ただし重症化防止には役立っている。この二者の関係がどう変わるのか。

恐らく米中の敵対的競合関係は10年の単位で続く。その面では半導体など一部製品の世界的流通は今後も一部で制約的となり、特に性能の高い製品については品不足気味となろう。ただし中古車価格の上昇やウッドショックはそれほど長く続くとは筆者は想定していない。その意味では「今の物価上昇は一時的」というFRB(米連邦準備理事会)の見方は恐らく当たっている。その件についてはまた取り上げたい。

問題はマーケットがその都度の綱引きに際してどちらの見方に付くかということだ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。