1. 金融そもそも講座

第282回 誰もが悩む出口戦略

最近筆者が一番驚きをもって聞いた発言は、イエレン財務長官の「米経済が過熱しないよう確実を期すには、金利はやや上昇せざるを得ないかもしれない」だ。5月3日収録された米アトランティック誌とのインタビューで、4日にウェブサイトで公開された。

これは彼女の後任であるパウエルFRB(連邦準備制度理事会)議長の最近の発言と、少なくとも印象としては大きく齟齬(そご)する。現議長はFOMC(米国連邦公開市場委員会)声明やその後の記者会見で繰り返し、「今の超緩和的金融政策を当面継続する」「米国のインフレ率が高まっても一時的」「金融緩和は2023年まで続く」と言って、緩和状態の継続を期待するマーケットを安心させることに腐心してきたからだ。

イエレン発言は短期間ながら相場の大幅下落を招いた。なにせ前FRB議長・現財務長官のそれだ。米金融政策の今後に影響力があるかもしれないと思うのが当然。しかし「金利上昇を予想したイエレン発言→マーケット動揺→その後の落ち着き」という今回の流れは、今の米国市場、ひいては日本を含む世界の株式市場が直面しているある種の“緊張状態”を反映している。マーケットは明らかに「やや難しい局面」に差し掛かったと言える。

この時期に?

私が最初にイエレン発言を聞いて思ったのは、「(長い目で見れば)当然にも思える予想だが、前任のあなたが今この時点で言うのか?」というものだ。「当然」という部分については、景気が良くなれば政策金利をいつかは引き上げざるを得ないのは洋の東西を問わない。特に今は歴史に例を見ない超緩和政策の時代。金融当局はいつか意図を持って出口を作らねばならない。

しかし、だ。「(前任のあなたが)今の時点で言うのか?」と思った。パウエル現議長の必死の努力を無に帰す危険性がある。最近の一連の会議、講演における彼の発言は一貫して、「政策金利の引き上げが近いかのようにマーケットに思われてはいけない」「マーケットに先走った観測を生んで動揺させたくない」という気持ちがにじむものだった。イエレン発言は当然ながらマーケットで嫌気された。

「彼女は時間を置かずに発言修正するだろう」と思ったら、翌日ウォール・ストリート・ジャーナル主催のオンラインイベントで「私は(金利上昇を)予想したり推奨しているわけではない」「米金融当局の独立性を尊重する人がいるとすれば、それは私だ」と釈明した。その後のマーケットの展開(筆者がこの原稿を書いている時点)は、ワクチン接種の進展で復活が予想される接触型産業銘柄を中心に底堅い。素直にイエレン前議長が意図を説明したことを好感した。

誰もが迷う

筆者が今回のイエレン騒動の中で強く思ったのは、「当局者も市場関係者も、誰もが少し迷うフェーズにマーケットは入った」というものだ。コロナ禍のマーケットは比較的単純なフレームワークだった。

  • 1.新型コロナウイルスとその変異体の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)で接触型の伝統産業が大打撃
  • 2.伝統型産業の多くの企業・労働者を救うために金融・財政政策は大きく緩和に傾斜
  • 3.一方で非接触型の大手IT企業などは業容を著しく拡大させ、借り入れコストも低下
  • 4.マーケットは緩和マネーの受け皿となり、増加した新規投資家のマネーも引きつけた

大まかだが、このように説明できた。経済が大打撃を受ける中で、株高には批判があっても当該国経済にとってのブライトスポットだった。資産効果もあって、一部の高額商品のネット販売は増えて経済を下支えした。

しかしワクチン接種が進んだ米国、それに英国、欧州などでは「経済活動の正常化」が実態的にも心理的にも進みつつある。やや見切り発車的ではあるが、国民もそれを待望しているように見える。日本で一部都府県に実施されていた緊急事態宣言や蔓延(まんえん)防止等重点措置が拡充・期間延長されているのと対照的だ。米国の南部州のスタジアムでは観客をフルで入れている。日本とは環境が全く違ってきた。

その結果マーケットで進行し始めたのは、「(今まで関心を集めていた)非接触型産業の銘柄から、復活しつつある接触型産業銘柄への物色意欲の転換」だ。この1カ月くらいのダウ工業株30種平均とNASDAQの指数推移をチャートで見れば明らかだろう。むろんNASDAQの株価水準が大きく落ちているわけではなく、マーケット全体では資金流入は続いている。ポイントの一つだ。

動揺しやすいフェーズに

今後のマーケットを巡る資金の動きに大きく影響するのは、繰り返し指摘してきた金利に関する見方の変化だ。その見方・見通しが錯綜(さくそう)する期間が既に始まった。筆者はそれをイエレン発言に見た。金利を巡る問題が複雑なのは、「いつ、どの程度」という問題。イエレン財務長官は発言に際して「(少し時間はかかるがいずれ)金利は上がる」という発言趣旨だっただろう。

その上昇幅は2.0%かもしれないし、0.75%かもしれない。しかしそれを明確に語る人はいない。分からないからだ。しかし「金利は上がる」と影響力のある人が言えば、マーケットは「近く、大幅に」と連想する。イエレン氏はFRBの議長を離れて時間がたったせいか、自分の発言がマーケットに与える影響を軽く見てしまった印象だ。マーケットは常に神経質だ。それゆえのウォール・ストリート・ジャーナル紙での釈明だ。

しかし「金利上昇(予測)」を心に秘めているのはイエレン氏に限らない。パウエル議長や日銀の黒田総裁も「今の政策を永久に続けられるわけではないし、出口戦略を考えねばならない」と思っているはずだ。しかしそれを口には出せない。市場を動揺させられないからだ。

迷っているのはマーケット関係者も同じだ。マーケットは「取り巻く環境・その枠組み変化」の時期は総じて不安定になる。今までの前提を入れ替えて、思考・投資パターンを切り替える必要がある。それは誰にとっても容易な作業ではない。

今のマーケットでは新たな緊張感が生まれている。特に米国の市場が顕著だ。一方に「経済成長と企業の収益増大」があり、もう一方には「増税と金利上昇見通し」がある。言ってみれば、その2つの力の「tug of war」(綱引き)が始まっているのだ。その2つの力は時に過小評価、時に過大評価される。必要なのはそれら全体を俯瞰(ふかん)する力だ。

ご注意:本コラムは、上記掲載日から2週間程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

目次へ戻る