1. いま聞きたいQ&A
Q

1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その4)

4回目は、ルーブル合意、前川レポートから、日本のバブル発生を説明していきます。

7.バブル発生の原因(一) ルーブル合意と日本のカネ余り現象

プラザ合意で決定された先進国間の為替レートの調整は劇的な成功を収めました。プラザ合意前後に1ドル=240円前後だった円ドル相場は、1985年末には200円割れに、1年後には150円へと急激なドルの下落が実現しました。アメリカの貿易赤字の元凶はドル高と高金利ですが、その根っこにあるものは財政赤字です。その財政赤字に本格的なメスを入れることなしに、為替レートを調整することでまず貿易赤字から削減しようという試みが先進国間で合意され、実行されたのです。

さらにアメリカの意図としては、ドル建ての借金(財政赤字)を自国通貨を切り下げることによって相殺することにありました。当時、アメリカの国債を購入している最大の資金の出し手は日本でした。そこで先進国通貨の中でも、特にドルの対円レートの水準を切り下げることによって、アメリカは日本からの借金を事実上大幅に減らすことに成功したのです。プラザ合意は先進5カ国間の政策協調という形をとっていますが、実質的にはアメリカと日本との間での政策合意です。

アメリカはドルの大幅な下落によって、競争力を失っていた海外市場もいくつか取り戻すことができました。双子の赤字という世界的な不均衡の問題はこの後も残り続けるのですが、世界はドル暴落の瀬戸際からひとまず息をつくことができたのです。

1987年になると、すでにドルの下落は十分に進んだとする声が主要国間であがってきました。中でもアメリカは為替レートの調整は実現したものの、当初の目的であった貿易赤字の縮小は思うように進まず、それどころか逆に大幅なドルの下落はインフレ、高金利、景気後退、ひいては世界的なリセツションをもたらす危険性を帯びるようになってきたのです。加えて輸出のウェートの高い日本や西ドイツでは、通貨高による不況色が強まるようになってきました。

そこでこれらの問題に対処するために、1987年2月にG7参加国間で新たに「ルーブル合意」が交わされました。これはプラザ合意とは正反対で、140円~160円の範囲にドルを安定させるという合意です。各国の為替レートがこれ以上の顕著な変動をすれば、ドルの下落に歯止めがかからなくなるという恐れが生じ、世界経済にとってマイナスの影響が大きいとの判断に立つようになったのです。

プラザ合意に基づいてアメリカの経済問題に全面的に協力した日本では、その副作用がどっと押し寄せることになりました。日本の産業は15%が輸出関連であるため、円ドルレートがプラザ合意をはさんでわずか1年間のうちに240円から150円まで円高に振れたため、国内経済は強い不況に直面することになりました。「円高不況」は日本でも政治問題になり、そこで日銀は不況対策として、1986年1月から1987年2月まで合計で5回の公定歩合引き下げを実施しました。この結果、プラザ合意前に5.0%だった公定歩合は、1年半後の1987年2月には戦後最低の2.50%まで急低下することになりました。

さらに日本は1986年3月以降、プラザ合意以降の為替介入を突然逆転させて「ドル買い・円売り」を実施するようになりました。すでにドルの水準は十分に下がっており、当初の目標にまで達したとの判断からですが、勢いのついた円高・ドル安の流れは止まりません。1987年暮れにはついに122円台まで円高が進みました。ルーブル合意では一定の相場圏を越えた時は、各国政府は為替介入に踏み切ることを盛り込んでおり、日銀はさらなるドル買い・円売り介入を続けることになります。

日銀の統計によれば、1986年に日銀が行ったドル買い・円売り介入の額は258億ドル、4.3兆円に達しました。これはまぎれもなく戦後最高額であり、4兆円を超える資金が市場に流れ出し、それだけマネーサプライが増加することになりました。しかも日銀が行った5回の利下げのうち、後半の3回はアメリカとの協調利下げ、あるいはアメリカからの要請を受けての利下げというものでした。急激な利下げと介入資金によるマネーサプライの増加によって、1980年代半ばの日本は猛烈なカネ余り現象、すなわち「円高による過剰流動性」が発生することになったのです。

8.バブル発生の原因(二) 内需拡大策と地価の高騰

円高不況対策として日本が打ち出した対策は「内需拡大策」でした。アメリカは1970年代後半より日本に対して、産業のあらゆる分野で市場開放、門戸開放を働きかけてきました。とりわけ80年代に入ってからは、日本の経常黒字額が世界の中でも特出して目立つようになったため、日本の一人勝ちを見逃すことはできないという政治的な圧力が諸外国で高まるようになりました。アメリカは自国内で湧き上がる保護主義を抑える代わりに、日本も流通、金融、農産物などの分野に残っている壁を取り払えという「結果の平等主義」を求めるようになってきます。

そのひとつの例が1983年11月に設置が決まった「日米円ドル委員会」です。円ドル委員会では、先進国の仲間入りした日本の金融市場が海外に対していまだに閉鎖的な市場を保っていることを問題視し、日本の金融市場の開放や金利の自由化、いわゆる「金融・資本の自由化」を推進することを強く要求しています。

円高不況の真っ只中にあった1986年4月、後の世を大きく決定づける報告書が発表されました。アメリカが要求する内需拡大策に応えるために当時の中曽根総理大臣の肝いりでまとめられた「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」です。研究会の座長であった前川春雄・元日銀総裁の名前を冠した「前川レポート」として知られる、非常に有名な報告書です。

中曽根政権はレーガン大統領とは「ロン・ヤス」のファーストネームで呼び合う間柄で知られるほど、日本とアメリカは政治のトップ同士では親密な関係を築いていました。この関係に基づいて、前川レポートが対米配慮型の政策を提言したことは決して不思議ではありません。

1980年代前半の日本はオイルショックの打撃を吸収したばかりの状況で、高度成長を支えてきた鉄鋼や造船、化学、繊維、海運などの重厚長大産業は、構造的な不況に直面していました。一方で電機、自動車、精密などの比較的新しい産業は、倍々ゲームで積み上がる経常黒字の元凶とみなされ、プラザ合意以降の激しい円高と海外からの市場開放圧力にさらされています。当時の日本は、将来はどうなってゆくのかまったくわからないという状況に置かれていました。

その閉塞状態を打開すべく打ち出されたのが「前川レポート」です。前川レポートでは、戦後40年間のうちに輸出主導によって急速な発展を遂げた日本が、経済構造を大転換させて、国際協調型の経済構造に自らを変革しつつ、持続的な成長を図ることを打ち出しています。国家の方針や国民の生活のあり方を歴史的に転換させるとの意気込みで作成されたこのレポートは、政官財学あらゆる方面に大きなインパクトを与えました。

前川レポートで示された具体的な構造改革の方策は、

  • (1) 内需拡大策
  • (2) 産業構造の転換
  • (3) 輸入の推進、市場開放
  • (4) 金融の自由化・国際化
  • (5) 世界経済への貢献

などに要約されます。この中でも中核となったのが(1)の内需拡大策と(2)の産業構造の転換です。より具体的には、住宅対策、都市再開発、消費生活の充実(労働時間の短縮)、地方の社会資本整備、経済のサービス化、流通・金融市場の開放、などが主眼とされました。

後からふり返ってみれば、1980年代後半の日本は前川レポートの提言をほぼなぞらえるような形で経済構造の変革に突き進むことになります。レポートの内容を改めて読み返してみても、2005年の現在でも通用するような提言が随所に散りばめられています。それだけ革新的な内容のレポートだったということになるのでしょう。反面でそれは、日本国民の間に新たな日本の発展を確信させる期待感を生じさせ、壮大な土地投機を引き起こすひとつのきっかけにもなったのです。

この頃の東京では、将来、超高層ビル250棟分ものオフィスビルが必要になると試算されて、不動産業界は土地の確保に奔走しました。「内需拡大」という新たな経済発展の糸口を与えられて、真っ先に動き出したのは銀行業界でした。日米円ドル委員会において日本の金融市場の自由化、市場開放が突きつけられた銀行業界は、それまでの規制された預金金利、融資先との長期的な取引関係という穏やかな業界慣行から、ビジネス競争の真っ只中に放り出されることになったのです。

金利自由化の下では、資金の運用力、収益力の拡大が企業間競争を制する最大の武器になります。それを悟った大手銀行は、ハイリスク・ハイリターンの融資を増やすようになってゆきました。それが土地担保融資の激化です。折りしもプラザ合意~ルーブル合意からのドル買い・円売り介入と、5回にわたる公定歩合の引き下げによって金融が大幅に緩和され、日本には「円高による過剰流動性」が発生しています。東京湾岸を中心に全国的に都市再開発ブームが沸き起こり、全国の地価は急騰を演じることになりました。

国土庁が発表する公示地価(毎年1月1日時点)によれば、全国の商業地の平均価格は1986年が前年比+5.1%でしたが、1987年には+13.4%、1988年には+21.9%へと上昇します。中でも東京圏の商業地は1986年が+12.5%、1987年は+48.2%、1988年は+61.1%という異常なまでの高騰を示しました。この間、卸売物価は円高によって継続的に下落しているため、いかに地価の上昇が急激に進んだかが見てとれます。

日本国中にあふれかえったマネーは株式市場にも流れ込みました。日経平均株価はプラザ合意の前年にあたる1984年末に1万1542円から、1985年末には1万3113円、1986年末には1万8701円になり、1987年末には2万1564円にまで上昇しました。東証1部・2部合計の時価総額は1984年末の161兆円から1987年末には336兆円に膨張し、1986年度の名目GDP(339兆円)とほぼ同額の水準までになっています。

この間、1987年2月には中曽根・行政政権の目玉であるNTTが株式市場に上場し、当初の政府保有株の売出価格(119.7万円)が1カ月後には301万円にまで高騰するというフィーバーぶりを演じました。NTT株の上場は国民の間で株式ブームが一気に広がるきっかけとなりましたが、空前の株式市場の活況をもたらした主役はここでも日本の金融機関でした。銀行と信託銀行が中心となってハイリスク・ハイリターンの株式運用を積極的に行った結果、昭和36年、昭和47年に続く「戦後3度目の大相場」と呼ばれる株式市場の活況がもたらされたのです。

日本では金利が戦後最低の水準に引き下げられ、景気も円高不況から思うように回復していない状況で、地価と株価が大きく値上がりするという状態が1986年から1987年にかけて起こりました。同時に国民の間では、日本は「内需拡大による成長」という新たな発展段階に向かっているのだという大きな希望が存在していました。その結果、企業も個人も、そして銀行までもが、借金を膨らませながら土地や株を買うという動きが日本中に広がったのです。

Q&A「1980年代の日本はなぜバブル景気になったのですか?そしてなぜバブルは崩壊したのですか?(その5)」へ続く

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