先進国で唯一、名目賃金が下がり続けている日本
日本では1997年以降、労働者が受け取る額面の賃金にあたる「名目賃金」がほぼ一貫して下がり続けています。厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、97年の名目賃金を100とした場合、今年(2013年)4~6月期の名目賃金は87.7まで低下していました。これは先進国のなかでは日本だけに見られる特殊な現象であり、長期デフレの大きな要因のひとつといわれています。
企業が生み出した付加価値のうち、どの程度が人件費に回されるかを表す「労働分配率」で見ると、日本はもちろん欧米など他の先進国においても1980年代以降、やはり低下傾向が続いています。その背景としては、IT(情報技術)などの技術革新を通じて省力化が進んだことや、経済のグローバル化によって先進各国の企業が新興国など人件費の安い国へ拠点を移したことなどが挙げられます。
すなわち先進国においては、もともと労働所得の抑制圧力が強まっていたわけですが、そんななか、どうして日本においてのみ名目賃金までが低下したのでしょうか。バブル崩壊後の1990年代に、日本企業は激化するグローバル競争への対抗手段として低価格戦略を採用し、その一環として人件費削減のスタンスを強めました。注目すべきは、米国のように従業員を解雇するのではなく、雇用の維持を優先しながら賃金を下げて対応する日本企業が多かったことです。
具体的には、主にボーナスを通じて正社員の賃金が引き下げられ、一方では賃金が相対的に低く、雇用調整も容易な非正規労働者の割合が引き上げられました。労働組合でも企業との賃上げ交渉より雇用維持を優先し、賃下げや非正規雇用の拡大を受け入れました。こうして名目賃金の平均値が下がり、労働者の消費意欲が弱まるとともに、賃上げ圧力がなくなった企業では低収益事業の温存が可能となります。結果として、賃金低下と低収益性の悪循環が生まれ、それが長期デフレの一因になったと考えられるのです。
賃金の上昇を幅広く、持続的に実現できるか
安倍政権ではデフレ脱却を確実なものとするため、経済界に対して積極的に従業員の賃金引き上げを要請しています。今年9月20日からは政労使協議が始まり、政府と経済界、労働界の代表が一堂に会して賃上げを議論するようになりました。労働組合の連合では来年(2014年)の春季交渉において、賃金水準を一律に引き上げるベースアップ(ベア)を5年ぶりに要求する方針を打ち出しています。
本来は個々の企業が労使交渉によって独自に定めるべき賃金の水準に、政府がなかば介入することに対しては賛否両論があります。しかし、何はともあれ現実に名目賃金が上昇へと向かう動きが出てきたことは、日本経済にとって大きな前進といえるでしょう。問題は、それが本当にデフレ脱却へつながるのかということです。
例えば以下のようなポイントが、今後の課題として挙げられます。
- ●賃金の上昇をスムーズに進めること
- ●賃金の上昇が労働者の間に幅広く波及すること
- ●賃金が持続的に上昇していくこと
賃金の水準には、労働者や企業が予想する将来の物価上昇率(期待インフレ率)も影響を及ぼします。物価の上昇時には、労働者が所得の購買力を気にかけて高い賃金を要求する一方で、企業側も労働の実質的なコストを考慮し、高い賃金の支払いにそれほど抵抗を感じないと考えられるからです。日銀がめざす2%程度の物価上昇を織り込んだ「先読み型」の労使交渉が実現すれば、賃金の上昇を迅速かつスムーズに進めることが可能になるでしょう。
厚生労働省の調査によると、企業に雇用されている全従業員に占める非正規労働者の割合は、1990年の20.2%から2012年には35.2%まで拡大しました。その2012年の時点で、非正規労働者の賃金水準は正規労働者の約62%にすぎず、賃金の引き上げが強く求められています。ただし、彼らは総じて企業との交渉力が弱く、能力開発の機会にも恵まれていません。非正規労働者の賃金上昇へ向けては、一部で行われている正社員登用のほかに、労働組合による積極的な取り込みや、政府の助成を通じた職能訓練の常態化など、外部からの働きかけがもっと必要かもしれません。
忘れてならないのは、賃金が長期的には労働者が生み出す付加価値の高さ(労働生産性)によって決まるということです。その意味からすれば、労働者の高い生産性が持続的に高賃金を生み出す――という状況が理想でしょう。成長戦略によって「労働生産性を向上させる場所」を新たに創ることはもちろん大切ですが、現状を見る限り、その実現にはかなりの時間を要しそうです。むしろ労働者が職業間を円滑に移動でき、適材適所により生産性の向上を図れるような労働市場の改革・整備が急務のように思われます。