1. 金融そもそも講座

第94回「人口減少への視点 PART3」江戸時代に人口の低迷期 / 同じように“改革”が叫ばれた / 故に“特産品”が生み出された

 「人口減少」と騒いでいるが、そもそも日本の人口は歴史的に見るとどのような推移をたどったのだろうか。大まかな推移を示すと次の通りである。(最新統計以外は推計)

  • 江戸時代の初め(1600年頃):1260万人
  • 江戸時代の終わりから明治維新(1867年頃):3300万人
  • 1920年初め:5800万人
  • 1970年初め:1億人
  • 最新統計:1億2800万人

江戸時代に人口の低迷期

推計ではあるが、日本の人口は比較的正確に補足されている。日本では昔から徴税のためなどもあってお寺などによって「宗門人別改帳」が作成されてきたからだ。400年前の日本の人口は、今の10分の一であったことにビックリする。ここ数百年の世界各国の人口の増加はすさまじい。

上記の数字を見ると、日本の人口は17世紀初頭以降一貫して増加してきているように見えるがそうではない。この期間に人口が急増した時期も、横ばいないし減少した時期もあった。

まず「人口急増期」といえば戦後の復興期が代表的だが、江戸時代にもあった。それは関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸に幕府を開府してから最初の100年余だ。このとき日本の人口は大幅に増えて3300万人前後に達した。これは兵農分離が進み、戦いがなくなって農地開拓が進んで農業生産力が著しく増加したからだ。つまり食糧生産が増えて、養える人口が増えたのである。

しかし江戸時代も100年を過ぎると農業生産力の伸びが止まってくる。開拓できる土地がなくなってしまったからだ。その後130年間に渡って、つまり江戸時代が終わり明治維新が始まるまで人口はほぼ横ばいを続けた。この間に、享保の飢饉、天保の飢饉などがあり人口減少の期間(10年~20年のタームで)もあったといわれる。

同じように“改革”が叫ばれた

では人口が低迷した江戸時代の130年間の日本はどうだったか?やはり“デフレ期”のように、人口が増えた時代の経済から大きな転換を余儀なくされた。豊かな税収をベースに拡大基調だった組織(藩、幕府)はリストラを迫られ、しばしば武士の生活は困窮した。農地が増え、藩内の人口が増えた時期は完全に終わり、増える富を享受する時代から、富を分け合うべき時代に入った。

各藩や幕府の財政は著しく切迫した。今の日本の赤字漬けの財政状況と似ている。そこで実施されたのが、「享保の改革(1716~1745年)」「寛政の改革(1787~1793年)」「天保の改革(1841~1843年)」という三大改革だ。ここ30年の日本も“改革”を何回もやっているが、これは歴史を見れば珍しいことでも何でもない。

江戸時代の最初の100年が戦後でいうところのバブルまでだとすると、その後は成長率が落ち、消費の著しい伸びが止まった。人口が伸びなくなったし、江戸時代の庶民はそれほど貯蓄を持っていたわけではないからだ。各藩(今でいう企業や官庁)は“緊縮”を余儀なくされ、それでも足りずに藩や幕府は商人から借りて負債を増やし(今の国債・地方債の増発に相当)、一定のインターバルで改革を打った。では、その当時の江戸時代の人々はどう商売したのか。これは参考になるかもしれない。なぜなら、日本はこれから少なくとも、最低数十年は続く人口の横ばいから減少時期に入るからだ。学ぶことはあるはずだ。

故に“特産品”が生み出された

いくつかの事例を手短かに紹介しよう。まず江戸時代の人はそれぞれの地域、商店ごとに「特産品」をつくった。需要喚起だ。興味を持ってもらい、買ってもらうためには、今までと同じ仕様では駄目だ。だからお菓子でも漬け物でも魚の処理法でも、いろいろ工夫した。実は日本の各地に残る特産品のほとんどはこの江戸時代の人口低迷期にできたものだ。だから特産品は、それぞれの地方や商店の「人口低迷期の商売における知恵の結晶」といえる。

増えなくなった耕地面積を冬の間も有効に使って、各地の特徴がある生産品をつくって加工した特産品にし、収入を増やそうとした。財政が切迫した藩もこれを奨励した。これは今でもそうだろう。日本中で「その土地独自の産品」の生産・製造が始まっている。最大の理由は、昭和の人口急増期が過去のものとなったからだ。例えば“牛”にちなんだものだけでも、この10年ほどでいくつ銘柄が増えたことか。沖縄から北海道まで、ざっと数えただけで数十はある。人口が減るときは「知恵の時代」ということだ。

一方で、商売は一人ひとりの消費者を大切にするものとなった。なにせ人口は増えないのだから、お客をしっかりつかまなければならない。家族構成や、いつごろに何が必要かを把握し、商店はそれに対応する。人口の急増期とはおのずから商売(ビジネス)の仕方は違ってくるのだ。人口が増える時代は、客が来るのを待っていればよい。しかし横ばい、減少の時期はそれでは駄目だ。多分、江戸時代の商店は今よりも店の周りの家(消費者)を詳しく把握していた。米屋や味噌屋は、どこの家がいつ、どのくらい買っていったかを記録していたはずだ。そして時期が来たときには奉公人(御用聞き)を走らせただろう。(

ご注意:本コラムは、上記掲載日から1ヵ月程度前に伊藤洋一氏が執筆されたものです。
閲覧される時期によっては、現状に即さないことも予想されます。また、内容には仮定に基づいた記述も含まれます。ご了承ください。

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