日本では過去40年近くも封印されていた
ペイオフとは銀行や信用金庫、信用組合などの金融機関が破綻した場合に、預金の一定部分について預金者への払い戻しを保証する制度のことです。日本では預金保険機構という政府出資の組織が、金融機関から保険料として預金合計の一部(年間5,000億円程度)を集めており、それが払い戻しの原資に充てられます。
ペイオフでは、当座預金など利息の付かない決済用預金は全額保証されますが、普通預金や定期預金などは預金者一人につき、元本1,000万円とその利息までしか保証の対象となりません。1,000万円を超える部分については、破綻した金融機関の財務状況に応じた弁済率に従って払い戻し金額が決められます。
今年(2010年)の9月、金融庁は日本振興銀行に対してペイオフを発動しました。実は日本でペイオフが発動されるのは、19711971年に制度が創設されて以来、これが初めてのケースとなります。
1990年代半ばから2000年代前半にかけて、バブル崩壊にともなう不良債権問題が深刻化し、日本では金融機関の破綻が相次ぎました。政府は金融システム不安や預金者の動揺を抑える狙いから1996年にペイオフを一時凍結し、預金の全額保護を表明します。その後、金融不安が後退するなかで2002年には定期預金、2005年には普通預金について、それぞれペイオフ凍結を解除しましたが、実際にペイオフが発動されたことはありませんでした。
例えば2003年に、りそな銀行と足利銀行が経営破綻した際には、いずれも地域経済への影響が大きいという判断のもと、政府が巨額の公的資金を投入して一時国有化し、普通預金はもちろん、すでにペイオフの対象だった定期預金も全額保護しています。凍結の時期も含めて過去40年近くの間、ペイオフという制度はあってもそれは名ばかりで、経営危機に陥った金融機関はすべて合併や国有化というかたちで事実上、救済されてきたのです。
影響の少なさと乱脈経営が発動の決め手に
今回、日本振興銀行にペイオフが発動された背景には、大きな理由が2つあると考えられます。ひとつは、同行が決済機能を持たない特殊な銀行だったこと。同行が取り扱う預金はすべて1カ月物~10年物の定期預金であり、人びとが日々の資金決済に使う普通預金や当座預金は扱っていません。預金者の大半は、他行より高めに設定された金利を目当てに余剰資金の運用をおこなっていたと見られ、1,000万円を超える額の預金も全体の1.9%(約110億円)という少なさです。ちなみに日本振興銀行の10年物定期預金の適用金利は、破綻前の時点で年利2.00%でした。
また同行には、インターバンク市場(銀行間市場)で資金調達をおこなわず、金融機関同士の資金決済に用いられる金融ネットワークにも加盟していない、いわば「自己完結型の銀行」という特徴もあります。破綻しても他の金融機関に連鎖的な影響が及びにくいことから、うがった見方をすれば、日本初のペイオフを実験的に実施するうえでは格好のモデルケースだったわけです。
もうひとつの理由は、ペイオフという制度そのものの意義と関係があります。ペイオフでなぜ、預金の保証額に上限が設けられているかというと、金融機関の健全経営への自己規律と、預金者の自己責任を求めているためです。いざというときは預金保険機構がすべて面倒を見てくれるとなれば、経営の危うい金融機関が高い金利を設定して、多くの預金をかき集めようとするかもしれません。預金者が金融機関を見る目も甘くなり、高金利目当ての預け入れが横行しやすくなります。それでは預金保険がいくらあっても足りないでしょう。
日本振興銀行はもともと、小口の中小企業向け金融を目指していました。それが破綻に追い込まれたのは、グループ企業へのずさんな融資やノンバンクからの債権買い取りなど、設立当初の志を忘れて強引な拡大路線を進んだ結果ということもできます。金融庁の立ち入り検査中に意図的な検査妨害行為が発覚したり、粉飾まがいの決算を発表したりと、旧経営陣に対する心証は非常に悪いものがあります。実際に他行より高い金利も設定しており、こうしたいきさつが、国民の税金負担につながる公的資金の投入に二の足を踏ませたという側面もあるようです。
一方で、日本振興銀行を監督する立場の金融庁に対する批判もくすぶっています。経営実態の把握が遅かったことに加えて、同行に銀行免許を与えた経緯に疑問が残るからです。銀行法違反で逮捕された同行の前会長は、小泉政権時代に竹中平蔵金融担当相のブレーンとして金融庁の顧問に就いていた人物です。これから詳しい検証が進むと思われますが、金融行政の対応次第では、今回のペイオフ発動が避けられた可能性があることも忘れてはならないでしょう。