太平洋戦争では日清製粉も多くの工場を喪失し、終戦の時点で生産能力は692トンにまで落ち込んだ。しかし、1945年6月に社長に就任した正田英三郎を委員長に、復興委員会が一切をあげて早期復興に着手。早くも翌年末には1,952トン、1949年には戦前レベルの2,764トンと驚くべき復興を成し遂げ、24時間フル操業体制で戦後の食糧不足解消に貢献した。
創業時代の工場を改修して建てられた製粉記念館(群馬県館林市)
昭和30年代は国民所得の増加とともに食生活の面が著しく向上・多様化した時代であった。これに対応するため英三郎はついに多角化を決意、1960年に配合飼料事業に進出した。続いて1962年、日清フーズ株式会社を設立してホットケーキミックスやドーナツミックスなどのプレミックス事業に参入、1967年にはマ・マーマカロニ株式会社を傘下にしてマカロニ・パスタ分野にも進出した。いずれも長年培ってきた、まさに本業たる製粉の知識と技術が存分に生かせる分野である。その強みが、日本人なら誰でも知っている数々の製品を世に送り出す原動力となった。
一地方の製粉会社が海外にも展開する日本一の小麦粉メーカーに、さらに総合食品メーカーへと変貌を遂げてきた日清製粉株式会社。現在は製粉等の高い技術力をコアに、医薬品事業やエンジニアリング事業へと多角的に展開するグループに成長してきた。節目節目の決断が、その後の大きな歩みへと見事に結びついた100年間でもあった。そして2000年、再び大いなる決断が下された。2001年夏、持株会社化した本社と分社化した6事業子会社にグループを大再編することを決定したのである。
数十年後、きっと皆が思うにちがいない。「ああ、あの決断が大きな飛躍の第一歩だったのだ」と。