開業当時の役員・社員。服装はスーツあり、着物ありで、当時の時代背景がうかがえる
製粉を開始した当初は、国産の機械粉の品質が信用されていないこともあり、販売には予想以上の苦労が重なった。しかし、粘り強い営業努力により次第に信用を勝ち得、それまでの国産粉にはない白さの美しい粉が大変な好評を博した。創業にあたり、経営の基本方針としたのは「工業会社としての立場を貫き、企業としての社会的責務を果たすとともに、工業的付加価値を高めていく」というもので、これには小麦が国際相場商品であったことから、投機的な利益の追求を戒める意味合いも込められていた。主食である小麦の価格が投機相場に左右されていては、国民の食糧事情は不安定なものになりかねないからだ。相場から原料を安く買い付ける機会は求めるが、それを工業化によって競争力のある製品に加工して、市場への安定供給を図る。企業としての利潤はあくまで工業化による加工利益に求めようとしたのである。貞一郎は「事業は常に社会と結ぶことを念頭に。自分一人が儲けることを考えると事業は決して長続きしない。すなわち信を万事の本と為す(信為万事本)」と考え、終生これを貫いた。
原料小麦をできるだけ安価で手に入れるとともに、付加価値の高い商品づくりのため、内外情報の収集・分析を行う調査部門に早くから力を注いでいたことにも注目したい。その範囲は内外の小麦市況や業界情報はもちろん、広く一般経済情報にも及び、昭和の初めになると政府の農林省ですら「小麦のことなら日清に聞け」と言うほどであったという。