1913年(大正2年)1月、貞一郎は約4カ月にわたる洋行に旅立った。創業から13年、すでに国内トップクラスの製粉会社となっていたが、「今後も会社を大きくしていくには、ただ馬車馬のように働くだけではだめだ」と考えた。合併や工場建設が続く重要な時期だったにもかかわらず、あえて製粉の先進地である欧米の視察へと赴いたのである。
最初の化学実験室
イギリスのマンチェスターでは、製粉工場の岸壁に大型汽船が横付けになり、原料小麦を真空吸揚機で自動的に高能率で吸い上げているのを見て、これこそ海国の日本が必要とする技術であると目を見張った。ドイツでは製粉機械メーカーのアンメ社が、製造だけでなく社内にテスト用ミルを設置し、実際に製粉を行いながら機器のさらなる改善を図っていたのを見て、メーカーは製造した製品を使用者の立場で絶えず研究し、顧客に満足を与えるよう努力すべきであることを実感した。こうした視察の成果を、貞一郎は帰国直後に建設が始まった名古屋工場から活用。1914年の落成時にはアンメ社製の機械が輝いていた。
また、欧州のほとんどの製粉工場には実験室があり、原料や製品について理化学的研究を行っているのを見て、帰国後すぐに本社内に化学実験室を設置。これが製粉工業へのわが国初の化学技術導入となった。先進の技術・ノウハウを迅速に導入していく姿勢は、現代の「スピード経営」にも通じるものといえるだろう。