1941年に太平洋戦争が始まると、日本の産業構造は重化学工業中心へと移行した。航空機工業、自動車工業を筆頭に、各種機械工業、化学工業が軍需産業として台頭し、軸受工業はこうした産業に不可欠な部品工業として未曾有の発展を遂げる。多摩川工場の建設によって、一町工場から近代企業へと脱皮を遂げた日本精工は、1935年以降急激に躍進し、1944年の総利益は、満州事変が起こった1931年と比較して、実に約413倍という驚異的な水準に達していた。
新幹線ひかり号用の軸受
しかし、これをピークとして、戦時体制下に異常なまでの躍進を遂げた軸受工業は、1945年の終戦とともに崩壊する。勃興以来、主に軍需によって発展してきた軸受工業界は、その大きな基盤を失い暗中模索の状態にあったが、日本精工は1945年11月20日、日産重工業(現・日産自動車)からの発注により、いち早く操業を再開した。その後、運輸省の要請で鉄道車両用軸受を生産し、これによってようやく戦後初の本格的操業体制がスタートした。この鉄道車両用軸受はその後の技術開発の基礎となり、優れた品質はやがて東海道新幹線の軸受に結実することになる。1950年、朝鮮戦争が勃発し、軸受工業は特需によって戦後の沈滞期を完全に脱して、近代工業としての発展を開始した。1958年に念願の対米輸出を果たし、1961年にいたって、日本の軸受生産高は、旧ソ連を除けば、アメリカ、旧西ドイツに次いで世界第3位となるまでに躍進。世界的ベアリングメーカーへの道を、いよいよ歩み始める。