1932年に生産が開始された国産家庭用ミシンの量産化第1号機。安井兄弟の和を表すBROTHERの商標が、金色の文字で記されている。
その後、販売代理店の数も少しずつ増加していた頃、第2次世界大戦が勃発、終戦になってみると主要な工場のほとんどが失われていた。1,600人に達していた従業員も150人を残して解散し、再起不能とも思われたが、正義はまたしても幸運に恵まれた。戦後の衣料不足を乗り切るためにミシンが必需品だったことに加え、軍の被服廠に納入していたミシン部品が無傷のまま返却されたのだ。終戦の翌年には輸出振興のために発足されたばかりの貿易庁が800台のミシンの輸出を決定し、日本ミシン製造はそのうちの200台を上海に輸出した。これがブラザーミシンの輸出第1号である。1948年には本場アメリカへの出荷も始まり、これ以後輸出は順調に進展していた。
そして1954年、日本ミシン製造は、自社ブランドを自社の販売網で売るために、海外市場を担当するブラザー・インターナショナル株式会社(BIC東京)を東京の京橋に設立、その2カ月後にはBICニューヨークを設立して、全米をカバーするブラザー製品の販売基盤を確立した。やがてブラザーミシンはその優れた品質でアメリカでも人気を博し、「輸入産業を輸出産業にする」という正義の夢はひとまず達成された。