麦わら帽子製作用水圧機
ミシンの製造には少なくとも150万円、現在の価値で10億円以上の資金が必要だった。常識的に考えれば、17歳の少年にとってそれはどう見ても夢物語である。正義は、資金がないならミシンを作る機械も自作しようと考えた。しかし、その機械を作るための機械も必要である。そこで思いついたのが水圧機の製作だった。安井ミシン商会が修理していたミシンはほとんどが麦藁帽子製造用のカンヌイミシンで、得意先の帽子メーカーでは、ミシン以外に帽子をのばす金型と水圧機が必需品だったのだ。さっそくなけなしの資金で工作機械を買い独力で据え付けた。作業は正義が中心となって、次男の種雄が販売を担当し、小学校を出たばかりの四男実一が現場仕事を手伝った。
こうしてミシン国産化をめざして安井兄弟の力が結集されていくこととなった。安井式水圧機は好評で、資金作りに大いに役立った。1925年暮れ、正義はその貯えと叔母から借りた3,000円を元手に、名古屋市熱田区に新店を構え、看板を「安井ミシン兄弟商会」と改めて、いよいよ国産ミシン実現へ向けてスタートを切った。
まずは構造を十二分に知り尽くしたカンヌイミシンの国産化である。もちろん資金に余裕はない。コンクリート打ちから機械の製作、設置まで一切を自分たちで行い、兄弟総がかりでようやく新工場が完成した。そして1927年、カンヌイミシン国産第1号機が完成し、翌年発売となった。これは昭和3年に発売されたことから「昭三式ミシン」と命名され、同時に商標として、兄弟が協力した和の成果にちなみ「ブラザー」と名付けられた。昭三式ミシンはひとたび市場に出ると、外国製ミシンの10倍の耐久力を持つと評判になり注文が殺到した。
昭三式カンヌイミシ
自信を得た兄弟は、満を持して家庭用ミシンに取り組み始めた。正義はミシンの研究を重ね、次男種雄は販売のために安井ミシン兄弟商会の個人商店を開業、四男実一は技術力に秀でていたため、ミシンの心臓部といわれるシャトルフック(中釜)の研究に専念することになった。シャトルフックはミシンの最も重要な部品で、国産化の重大な鍵を握るものだった。例によって機械設備まですべて自分たちで作らなければならない。特に研磨機はまだ希少価値の高いもので、これを設計するために名古屋中を探し回り、ようやく見つけて見よう見まねで作り上げた。こうして悪戦苦闘の末、1932年春に工場設備が完成し、夏にはシャトルフックの量産化に成功したのである。そしてその年の暮れ、ついに長年の夢であった家庭用ミシン1号機が完成した。