1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

日本郵船株式会社 創業者 岩崎弥太郎

1875~1885年 上海航路の勝利と日本郵船の誕生

日本が鎖国していた2世紀余りの間に英国では産業革命が起こり、世界は劇的に変化していた。いざ開国してみると、彼我の技術力には天と地ほどの差がある。すでに太平洋や大西洋に定期航路を持つ外国の船会社が、いつの間にか貿易航路はおろか日本沿岸の海上輸送ルートにまで手をのばしている状態だった。なかでも太平洋の覇者といわれた米国のPM社(Pacific Mail Steamship)は、日本沿岸輸送を含めた航路の完全独占を企てている。さすがに危機感を募らせた日本政府は、民間会社を保護育成して国際競争力を付けさせ、日本沿岸と外航から外国海運資本を排除する方針を決定した。この時白羽の矢を立てられたのが、岩崎弥太郎の三菱商会である。

茅場町本社

郵便汽船三菱会社茅場町本社
(1877年頃)

土佐藩が設立した九十九商会にいた岩崎弥太郎は、内航事業を起こし、1873年(明治6年)三菱商会と改称、その後本拠を大阪から東京日本橋に移し、1875年(明治8年)、政府より日本海運を任されたことを機に、海運部門を郵便汽船三菱会社と改称した。弥太郎が最初に政府から命じられたのが、綿花の輸入を主目的とした横浜-上海定期航路の開設である。上海は欧米列強の東洋の拠点で、日本にとってそれは世界に通じる最重要ルートだった。ここに立ちはだかったのが、先のPM社と英国の名門船会社P&O社(Penninsula & Oriental Steam Navigation)である。たちまち値下げ競争が起こり、三菱は満身創痍となりながらも、政府のバックアップや三菱銅山の好況を背景にこれに打ち勝ち、米英の両社とも上海航路から撤退、日本は初の航海自主権を手にした。
その後、三菱の対抗会社として明治政府は共同運輸を設立。両社はすさまじい競争を演じたが、日本海運全体の衰退を懸念して競争の停止を合意し、協議の末、両社が合併して新会社を設立することとなった。1885年(明治18年)9月29日、日本郵船の誕生である。

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IRマガジン2001年7-8月号 Vol.50 野村インベスター・リレーションズ

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