東京工業大学の加藤博士の研究室(1933年頃)
1935年12月7日、フェライトの工業化を決意した齋藤はどうにか資金を工面し、東京市芝区(現在の港区西新橋)に会社を立ち上げた。
齋藤が加藤博士と出会ってからわずか4カ月目のことである。社名は、フェライトが発明された東京工業大学の電気化学科にちなんで東京電気化学工業(株)とした。会社設立を決意した齋藤が、特許の承諾を得るために再び加藤博士を訪ねた時、博士は、フェライトはまだ用途も商品価値もないという理由で、無料で特許を譲ろうと齋藤に告げた。自分の考えに共鳴して工業化を思い立った齋藤の熱意に、日本の独創的な工業化への夢を託した博士の厚意であった。
さて、会社は立ち上がったが、当初は約6坪の小さな事務所があるだけでフェライトを工業化するための工場も設備もなかった。
初期のフェライトコア
齋藤は金策に奔走し、1937年7月21日、東京の蒲田にようやく工場が完成した。この頃には東京工業大学から新たなメンバーも加わり、通信機などの部品に使われるフェライトコアの試作がいよいよスタートした。
こうして出来上がった最初の製品はオキサイドコアと名付けられ本格的な営業活動が開始された。この頃のカタログを見ると表紙に「純国産特許高周波磁心 TDKオキサイドコア」の文字が見え、TDKという名称は最初の製品から使われていたことがわかる。
営業初年度に当たる1937年の売り上げは個数にしてわずか372個と振るわなかった。当初営業目標としていた通信機器への採用が伸びなかったためで、次に、当時成長しつつあったラジオ用の部品に目標を定め、新たな営業活動が開始されたが、これが功を奏した。
1940年5月、松下電器産業(株)から約10万個のフェライトコアを受注し、フェライトコアはようやく軌道に乗り始めた。この頃、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日本は戦争への道を突き進み、軍部からの受注が拡大して東京電気化学工業は苦しい時期を脱していった。