現在の理化学研究所(和光本所)の全景
事実、大河内は、理研産業団から得た収益を理化学研究所に惜しみなく注ぎ、1940年には、所員も1,800名を超えていた。とりわけ、基礎科学の研究を重視した。
その象徴が、原子物理学・量子力学のメッカとなった仁科芳雄研究室であろう。仁科のもとに、後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎、坂田昌一、武谷三男などの俊英が集まってきた。日本最初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹も籍を置いたことがある。
しかし、戦争の足音が迫ると、理研産業団は11社に再編成されて、軍事産業の中に組み入れられていった。さらに、仁科研究室も、軍の要請で原子爆弾の原料となるウラン235の濃縮を始めることになった。
こうしたこともあって、戦後、GHQによる理化学研究所と理研産業団の解体につながっていくのである。仁科研究室の大型サイクロトロン(加速器)は解体・投棄され、大河内は公職追放となった。
大河内は、自邸や真鶴の別荘で、科学主義工業に関する著作とともに、趣味の陶器鑑賞の書物を執筆して日々を過ごした。そして、追放解除になった翌年の1952年8月、73歳で死去した。
一方、理化学研究所は1948年に特殊法人として復活し、今日、日本のCOEと呼ばれるまでに発展している。大河内が創始した主任研究員制度、自由な研究といった伝統は、そのまま受け継がれている。