1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

理化学研究所第三代所長・理研産業団創始者 大河内正敏

1921~1925年(2) 画期的なインセンティブ制度

理化学研究所の年間予算は急に増え、たちまち90万円を超えてしまった。もはや、国の助成金も民間の寄付金もあてにできない。
そこで、大河内が考えたのは、研究成果を事業化して資金を調達することだった。それまでも特許販売は行っていたが、物理・化学の基礎研究が中心で応用技術は少なかったので、大した額にはならなかった。
事業化第1号は、池田研究室から生まれた。磯部甫が開発した吸湿材「アドソール」である。新潟に産する酸性白土で、水や揮発成分をよく吸い加熱すると元に戻る。大河内は新潟県柏崎で天然ガスから揮発油を回収する実験を始めた。この事業はうまくいかなかったが、「アドソール」は乾燥剤・除湿剤として、邦楽座、帝国劇場の冷房装置などに広く活用された。

そして、救世主が“ウメ研”こと鈴木梅太郎研究室から現れた。
「ビタミンA」である。ビタミンAは、1914年に米国のマッカラムがバターから発見した。タラの肝油にもビタミンAが大量に含まれているので、眼病患者や結核患者に肝油が投与されていた。ただ、きわめてまずいのが難点だった。そこで、研究員の高橋克己が、肝油からビタミンA抽出に取り組んだ。当時、ビタミンAはこわれやすいと思われていたが、高橋は肝油を熱やアルカリで強引に処理してわずか1カ月で分離に成功した。
大河内は小躍りした。周囲は製薬会社に製造特許の販売を勧めたが頑として聞かず、所内に溶媒槽や蒸留装置を入れて自ら量産することにした。工作部の活躍で4カ月で試験工場ができ、ゼラチンカプセルに詰めて『理研ビタミンA』として36錠入り2円で売り出した。これが爆発的にヒットして、1924年だけで約30万円を売り上げ、3年後には年間売上が100万円以上になった。
ここで注目すべきは、大河内は発明者の高橋に年10万円を超える報償金を払ったことだ。まさにインセンティブ(成功報酬)である。高橋は惜しくも若くして腸チフスで急逝したが、遺族にも売上に応じて年間10万円を超す報酬金が支払われた年もあったという。
一方、主任研究員の鈴木梅太郎も、「主食の米から酒をつくるのはもったいない」といって人造酒の研究を続けていた。アルコールは糖蜜などを発酵すればよいが、問題は味と香りである。鈴木はその正体は有機酸だとにらんで研究を続け、コハク酸にたどりついた。最初はひどい味だったが徐々に改良され、人造酒『利休』が完成した。大河内は、さっそく製造販売を始めようとしたが、大蔵省管轄の酒類ルートの壁は厚く苦戦が続いた。その成功は1940年頃まで待たねばならなかった。
しかし、財政危機は去った。所長就任時は100人足らずだった所員も、1925年には約350人に達していた。新たに加わった主任研究員に、夏目漱石の『三四郎』の“野々宮さん”のモデルで、X線回折の研究で知られる寺田寅彦がいた。寺田は「線香花火の研究」「金平糖の角の発生」など異色の研究を行い、後に東大に戻り地震や地球物理研究の基礎をつくった。女性研究員も多かった。黒田チカは染料の研究で理学博士になり、丹下ウメは過食の研究で農学博士になった。
1925年、大河内は東大をやめ、理化学研究所に専心した。

board

IRマガジン1999年2-3月号 Vol.36 野村インベスター・リレーションズ

  1. 前へ
  2. 1
  3. 2
  4. 3
  5. 4
  6. 5
  7. 6
  8. 7
  9. 次へ

目次へ