1927年(昭和2年)、大河内は研究成果を本格的に事業化するために理化学興業(株)を設立し、自ら会長に就いた。
(株)野村銀行(大和銀行・野村證券の前身)などの支援のもと、1930年に柏崎に本社工場が建設され、発明品の企業化・工業化の一大実験場となった。
当初は、アドソールの空調関連応用品、ビタミンA、B1、D、人造酒の製造販売だったが、これらに刺激されて各研究室から“芋づる式”に新発明が生まれていた。紫外線吸収材ウルトラジン、殺虫剤、コランダム研磨材、アルマイト、ガス微量分析計、精密工作機械、高電気抵抗器『リケノーム』、電解コンデンサー、金属マグネシウムや炭酸マグネシウムの製造など、きわめて広範囲な分野にわたることに驚く。
例によって、大河内は、発明者にどんどん報償金を与え、1932年の理研マグネシウム(株)の設立以後、製造販売会社を次々と設立していったので、理化学興業は持株会社の性格に変わっていった。ここに、理研産業団(理研コンツェルン)という企業集団が誕生したのである。
新会社の中でも、1934年設立の理研ピストンリング工業(株)(現・(株)リケン)は、大河内研究室から生まれた。大河内は、エンジンのピストンリングに信頼性のあるものがないことに着目して研究を進めていたが、門下の海老原敬吉が「ピン止め加工」という斬新な製造法を完成させたのである。おりしも、わが国の自動車工業、航空機産業の勃興期を迎えていたが、理研のピストンリングは航空機用リングで名声を博し、本格的に生産された。
桜井錠二の子・桜井季雄が発明した陽画感光紙をもとに1936年に設立された理研感光紙(株)は、後に写真機など光学製品を加えて理研光学工業(株)と改称し、今日のリコーグループの礎となった。
その後も、特殊鋼、再生ゴム、合成樹脂、栄養食品と法人化がつづき、理研産業団は1939年には63社にのぼる企業グループに成長していった。
農村工場の共同作業(1930年代)
理研産業団でユニークなのは、理化学興業の工場を柏崎においたように、大河内の「農村工業」の考え方に沿って、農村に小規模工場を数多くつくったことだ。工場作業に慣れない人のために仕事を単純化する工夫もされた。余談だが、この思想に感激した若き日の田中角栄が、大河内の書生になるべく上京し、後に大河内の知遇を得て事業を広げた逸話は有名である。
また、大河内は「科学主義工業」を唱えて、「理研産業団は利潤追求が目的ではない。研究成果を世に還元し、理化学研究所の資金を得て、日本を科学技術大国にするのが目的だ」という趣旨を述べている。