1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社岡村製作所 創業者 吉原謙二郎

1952~1960年「動く製品」への情熱

1952年の日米講和条約によって国産航空機の製造が解禁となり、戦前の航空機メーカーは一斉に生産の再開に乗り出した。この頃、朝日新聞社は同社が主宰する日本学生航空連盟に寄贈するために飛行機を製作することとなったが、同社がその製作を依頼したのは、なんとオカムラであった。吉原たちが所属していた旧日本飛行機は大手に比べるとはるかに小さなメーカーだったが、オカムラには山名正夫をはじめ、日本有数の航空機技術者たちがずらりと顔を揃えていたのである。

開発はオカムラと日本大学が共同で行うことになり、日本大学の“N”と開発開始年度の“52”を組み合わせて、飛行機は「N-52」と名付けられた。設計は山名正夫と日本大学の木村秀政教授が中心となって進められた。設備も材料も不十分なものであったが、技術者たちは創意と工夫を凝らして苦境を乗り越えていった。エンジンはパン・アメリカン航空極東支配人のダグラス・B・シャーマン氏が木村教授にプレゼントしたアメリカ製の4気筒65馬力エンジン。馬力が低いため思い通りの結果がなかなか得られず、機体にはさまざまな設計変更が施された。軽量化のために操縦席の屋根を取り払うなどの改良を重ねてN-52はようやく完成し、1953年4月7日、浜松飛行場の空に飛び立っていったのである。当初200万円と見込んでいた製造原価は400万円まで膨らんでいた。結局、オカムラはコスト面の問題から飛行機の製造を続けていくのは困難と判断し、これ以後、航空機産業に足を踏み入れることはなかった。

1959年に発売されたミカサのスポーツタイプ「ミカサツーリング」

1959年に発売されたミカサのスポーツタイプ「ミカサツーリング」

「動く製品」への情熱は、しかしこれで終わりではなかった。飛行機の開発が始まった1952年、オカムラは自社のトルクコンバータを搭載した国民車を作ろうと、自動車の開発もスタートさせたのである。まず、サンプルとしてフランスの大衆車シトロエン2CVを購入し、徹底的に研究した。その結果、トルクコンバータと2段変速機を組み合わせた自動変速機搭載という、国産初のFF・オートマチックの乗用車が誕生した。ボディの製造には航空機の薄板加工技術が、シートや内装には家具製作の技術が活かされ、製作はすべて社内で行われた。「ミカサ」と名付けられた車は1957年5月の第4回全日本モーターショーでデビューし、順調にスタートを切った。1959年にはスポーツモデルも発売され、「ミカサ」は順風満帆であった。しかしそれまでに投入した資金はすでに膨大なものとなっており、しかも自動車産業はまだまだ未知数であった。家具メーカーとして専念すべきという声もあがり始め、1960年春、ついに「ミカサ」の生産は中止された。3年間で送り出された「ミカサ」は約250台であった。自動車産業から撤退したオカムラの「動く製品」への情熱は、その後、トルクコンバータや、自動倉庫などの物流システム機器に受け継がれていったのである。

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IRマガジン2003年秋号 Vol.63 野村インベスター・リレーションズ

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