1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

株式会社岡村製作所 創業者 吉原謙二郎

1913~1945年 焼け野原で生まれた会社

オカムラの創業者、吉原謙二郎は、1913年(大正2年)、横浜に生まれた。旧制横浜高工(現在の横浜国立大学工学部)の造船工学科航空専修生コースを卒業後、いくつかの航空機会社を経て、海軍の山本五十六(後の連合艦隊司令長官)が設立に尽力した航空機会社、日本飛行機株式会社に入社した。ここで工作課長としてさまざまな飛行機の製作に携わり、33歳の時、終戦を迎えた。

1952年頃の岡村工場

1952年頃の岡村工場

戦後はGHQ(連合国総司令部)によって飛行機の製造が禁止され、日本飛行機でも仕事はまったくなかった。当時はほとんどの会社が機能を停止し、そこに戦地から引き揚げてくる人々も加わって失業者は増加するばかりだった。吉原は残った社員たちと一緒に、横浜市磯子区岡村町にあった疎開工場で日用生活品を作ろうと考え、会社に民需生産の許可を申し出た。そして、まず、当時最も逼迫していたアルミニウム鍋の生産準備にとりかかったのだが、結局、日本飛行機は民需生産を断念してしまった。そこで吉原は社員たちに働きかけ、みんなで資金を持ち寄って、自力で経営を始めることを決意した。お互いに助け合って事業を起こす以外、道はなかった。それぞれ貯金や退職金、あるいは家財や衣類を売り払って作った資金を持ち寄り、5万円が集まった。これを資本金として、1945年10月10日、会社が設立された。社名は創業の地の名をとって岡村製作所と命名された。

売り物になる技術や製品があるわけではなかった。ただ、それぞれが資金、技術、労働力を提供しあい協力しあう「協同の工業」があるだけだった。企業は協同体であるという思想。吉原はこの考え方を、技術者になりたての頃に読んだ一冊の本から学んだ。それは世界的なレンズメーカーの創立者カール・ツァイスの自伝で、ツァイスの後継者となった大学教授アッベの言葉として、こんなことが書かれていた。「事業がこれほどまでに発展したのは、ツァイスの努力と同時に、従業員と大学の協力、そしてイエナの町の人々の協力があったからだ。企業は社会と人々との協同体である」。オカムラの発足は、まさにこの考え方を具現化したものだった。社名に町の名を冠したことも、そのあらわれだったにちがいない。

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IRマガジン2003年秋号 Vol.63 野村インベスター・リレーションズ

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