「里の水車」児島虎次郎画
倉敷美観地区を歩く。大原家が財をなした時代の美しい蔵屋敷が並んでいる。掘割をはさんで大原美術館と向かいあうのが大原邸である。右手は孫三郎が病弱な寿恵子夫人のために建てた有隣荘。黄緑色の瓦が美しく地元で「緑御殿」と呼ばれ、長らく大原家の迎賓館ともなってきた。
大原美術館は孫三郎の最後の社会事業となった。そのコレクションは、大原奨学会の支援で東京美術学校(現・東京芸術大学)に学んだ児島虎次郎が蒐集した西洋絵画がもとになっている。児島は、勧業博覧会美術展で青木繁、熊谷守一らの俊才をしりめに「里の水車」で一等になり、孫三郎から褒美にパリ留学を許された。大正8年、2度目の留学の際、児島は日本で学ぶ画学生のために絵画の蒐集を孫三郎に頼んだ。孫三郎は迷った末に許可を与えた。
蒐集した絵は倉敷の小学校で展覧されたが、全国から人が集まり、駅前から行列が絶えなかったという。それを見た孫三郎は驚き、欧州の画商にさらに蒐集を依頼するが、集まった絵には満足できなかった。そこで、再度、児島に本格的な蒐集を命じ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロートレックなど印象派を中心にロダンの彫刻など教科書に載るような巨匠の作品が網羅されたのである。
大原美術館
西洋美術館のほか、工芸館には柳宗悦が指導した民芸運動の浜田庄司、バーナードリーチ、富本憲吉、河合寛治郎の作品が展示され、版画室には棟方志功の作品が並ぶ。
東洋館は児島が蒐集した中国、インドの作品を収める。分館は日本の浮画家の作品を中心に展示している。
写真手前の今橋は児島虎次郎の設計・デザイン。
孫三郎が最初は躊躇しながら、3度目ではうって変わって積極的に蒐集を指示した背景には、繊維産業に身を置いて綿花などの先物を扱ってきた経営者の眼があった。第一次大戦後の欧州不況と円高を読み取り、今が西欧文化を輸入するチャンスだと判断して、千載一遇の好機をとらえた買いだった。まさに、先を見る事業家らしい大胆な決断を下したといえよう。
児島は昭和4年に没するが、その翌年に大原美術館が建設された。わが国初の西洋美術館であった。大原美術館は、孫三郎が「私の一番の最高傑作」といってはばからなかった總一郎に受け継がれ、今日の隆盛につながっている。
観光客でにぎわう路地を抜けた先に、倉敷観光の基地として人気を集める「倉敷アイビースクエア」がある。倉敷紡績の創業工場の跡地をホテルにした。中庭を囲む煉瓦壁は昔のままで、当時もツタにおおわれていた。倉敷労働科学研究所の発案で日除けのために植えられたものだという。この一角に倉紡記念館と児島虎次郎記念館がある。
ちなみに、倉敷駅前のデンマークのおとぎの国「倉敷チボリ公園」も万寿工場の跡地である。