倉敷中央病院
昭和に入ると、未曾有の危機が訪れる。
昭和2年(1927年)に始まった金融恐慌は、世界大恐慌に連動して暗黒の大不況がやってきた。倉敷紡績も輸出不振が響き、創業初の欠損を計上した。役員報酬の減額、倉紡中央病院の独立などの合理化を図ったが、状況は悪化するばかりで、人員整理で労働争議も起こった。
こうなると「研究所道楽」への批判が一挙に吹き出した。大原家が運営する大原農業研究所はともかく、治安維持法で逮捕者も出した大原社会問題研究所への風当たりが強くなった。しかし、孫三郎はどうしても存続させたかった。「片方の足に靴を履き、一方の足に下駄を履くのは難しい」と嘆きつつ、どちらも脱がずによたよたと歩き続けた。
昭和5年には最愛の妻・寿恵子にも先立たれた。
そして、昭和7年、ようやく為替が円安に転じて長い不況のトンネルを脱し、倉敷紡績も息を吹き返す。人絹ブームの到来で倉敷絹織は順調に発展する。再び、孫三郎の拡張主義が始まった。昭和10年には倉敷毛織を設立した。
孫三郎は倉敷紡績第四代社長となる長男の總一郎に自分の経営哲学を説いている。
「十人の人間のうち、五人が賛成するようなことは大抵手遅れだ。七、八人がいいといったらもうやめた方がいい。二、三人位がいいということをやるべきだ」。
孫三郎は昭和14年に總一郎に一切をゆずった。晩年は、素朴な民芸を愛し、昭和18年に大原邸で臨終を迎えた。62歳だった。これほどの事業を成し遂げたというのに、「自分の一生は失敗の一生だった」と總一郎に語ったという。