孫三郎には大原家当主としての顔もあった。むしろ、大原家の財政は、地主としての収入が主であったろう。
謹慎のおり、孝四郎は孫三郎に小作地の管理を命じたことがある。小作地を見てまわった孫三郎は、その窮状に接して「地主と小作人は同胞的関係にならないと平和を保つことはできない。そのうえで生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない」と強く思った。
米の品種改良から始めた。小作人の子弟教育も考えた。大原奨農会をつくり農業改良資金を貸し出した。ところが、小作地を買い取って自作農になりたいものに融資すると発表するに及んで、近隣の地主から「大原は紡績で稼ぐからいいが、我々には死活問題だ」と猛反発をくらった。
それで別の形を考え、大正3年(1914年)に大原奨農会農業研究所(現・岡山大学農業生物研究所)を設立し、運営のために200町歩を拠出した。この研究所で岡山名産となるマスカットや白桃が開発されたことを特筆しておきたい。
大正7年の米騒動が岡山に飛び火したときには、孫三郎は米廉売資金を町に寄付して倉敷での米価高騰を防いだ。このように経営者となっても、「天職のために財産を遣い尽くす」姿勢は変わらなかった。
大正8年には、大原社会問題研究所を発足させる。小学校の同級に日本共産党設立に参加した山川均がいたことも影響したはずだが、石井十次が大正3年に没したことで救貧運動の限界を悟り、貧困の原因をなくすことが先決だと考えるようになっていた。ともかく、所長になってもらうべく河上肇を訪ねる。河上は「私のような危険人物のところに資本家のあなたが来てはいけない」とあきれつつも高野岩三郎を紹介してくれた。ここでも「金は出すが口は出さない」主義で通した。
大原社会問題研究所(大正9年頃)
大原社会問題研究所はやがてマルクス経済学の中心となり、大内兵衛、森戸辰男などを輩出した。戦後は法政大学大原社会問題研究所となっている。
大正10年には倉敷労働科学研究所をつくり、工場内の労働環境を改善すべく、工場内の温湿度管理やカロリー計算に基づく給食などを実施した。
大正12年には、従業員のために倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)を設立し、一般市民にも広く開放した。病人は社長も工員も平等であるという考えで小児以外は個室をつくらず、見舞品ももらえない人があるという理由で持込禁止とした。入口に大きな温室を設けて病人が憩える環境をつくり、白い壁は圧迫感があると淡いピンクで塗った。