1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

大原孫三郎

1880~1901年 放蕩の日々の果てに

大原孫三郎は、明治13年(1880年)に岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれた。
大原家は米穀・棉問屋として財をなし、小作地800町歩(約800ha)、小作人2,500余名を数える倉敷一の富豪であった。明治を迎えて地元の殖産を託した倉敷紡績を設立するにあたり、孝四郎は初代社長に就いていた。

大原家では二人の兄が夭折していたため孫三郎が跡継ぎである。遅くに生まれ身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられた。長じて、旧藩校の閑谷黌に入ったが、勉強嫌いなうえに寄宿舎生活が肌にあわず飛び出してしまう。
明治30年、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学するも講義にはほとんど出ず、取り巻きに誘われるままに遊里通いの放埒な日々を送った。田舎の大金持ちのせがれと値踏みした高利貸しがどんどん貸し込んだから、たちまち借金の元利が15,000円にのぼった。今なら億単位の金である。さすがに大原家は姉婿の原邦三郎を始末に派遣したが、その最中に邦三郎が倒れて急死してしまった。孫三郎は謹慎の身となり、孝四郎の実家である藤田家に預けられた。
孫三郎とて遊んでばかりいたわけではない。足尾鉱毒問題で友人と現地を視察したこともある。謹慎中、その友人から届けられた二宮尊徳の『報徳記』を耽読し、「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感激した。

大原孫三郎一家

大原孫三郎一家
左から寿恵子、恵以、總一郎、孫三郎

決定的な転機となったのは石井十次との出会いである。岡山の医学校を中退して医師をしていた石井は、クリスチャンでもあった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を創設した。その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動に包まれた。石井の事業を資金面から支えることになる。といっても石井は一時は1,200人もの孤児を集め、孤児たちが自立できるように宮崎県茶臼原に大農場を開いたりするような理想主義者だったから資金はいくらあっても足りない。それでも「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのだった。
石井は孫三郎にも日記をつけることを勧めた。孫三郎は「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記した。放蕩の日々と横死した義兄への贖罪の気持ちがあったのかも知れない。石井の仕事は、今日、宮崎市の石井記念友愛社に引き継がれている。
石井は結婚も勧めた。明治34年、石井スエ(寿恵子)と結婚する。孫三郎はいまだ21歳であった。

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IRマガジン1998年8-9月号 Vol.33 野村インベスター・リレーションズ

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