この年、孫三郎は倉敷紡績に入社した。小学校さえ出ていない職工が多いのに驚いた。そこで職工教育部を設立し、翌年には文部大臣の認可を得て工場内に尋常小学校を設立した。また、働きながら学ぼうとする若者のために倉敷商業補修学校を設立し最初の校長になった。地元の子弟を対象とした大原奨学会も始めた。
大原孫三郎が撮影した明治末期の倉敷川。煙突は倉敷紡績倉敷工場(現・倉敷アイビースクエア)
石井の勧めで地元に新しい知識を呼び込む倉敷教育懇話会を始めたのはその翌年である。第一回日曜講演に招かれた山路愛山は、主催者が二十代の青年と知って仰天した。この懇話会はすぐつぶれるだろうという見込みに反して、24年間続き実に76回を数えた。講師に、徳富蘇峰、新渡戸稲造、大隈重信など日本を代表する知識人が名を連ねた。
明治39年に社長に就任すると、まず飯場制度を廃止した。当時は口入れ屋が従業員の手配、炊事の請負、日用雑貨の販売を仕切り、法外なピンはねを行っていた。これを会社に帰属させるとともに、非人間的な集合寄宿舎をやめて分散式家族的寄宿舎を建設した。
倉敷紡績は地元資本の集合である。こうした諸施策は株主の反発を招いた。しかし、孫三郎は「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切った。細井和喜蔵が『女工哀史』を書いたのは20年後の大正15年だから、いかに進んでいたかがわかる。
むろん、孫三郎は経営者としても果断な施策で倉敷紡績を全国規模の会社に成長させた。大学や高専出身者を次々に採用し、前垂れの番頭中心の古い経営を一掃した。
明治末年の日露戦後の不況では、大型合併による紡績業界の再編が進み、地方会社にすぎない倉敷紡績は飲み込まれてしまう危機に直面した。これに対して孫三郎は吉備紡績の買収に乗り出す。買収金額は46万円で倉敷紡績の資本金40万円を上回っている。重役や株主が反対するのを意に介さず、「事業に冒険はつきもの、わしの眼は十年先が見える」として、その後も次々と工場を拡張していった。自前の発電所もつくり、いち早く蒸気動力から転換した。
孫三郎の読み通り、大正に入ると、第一次大戦の勃発により日本は空前の好況を迎える。倉敷紡績は先行投資が功を奏し、実に6割配当を実現する。四国にも合併・新設で工場拠点を築き、遂に業界大手にのしあがった。
さらに、県下の銀行を統合した中国合同銀行(中国銀行の前身)の頭取となり、電力事業の統合を図って中国水力電気会社(中国電力の前身)も設立した。こうして孫三郎は、中国・四国きっての実業家といわれるまでになった。新事業にも積極的で、大正15年には、人絹事業の将来性を見抜いて倉敷絹織(現・クラレ)を設立した。