戦後の電話の復興ははかばかしくなかった。政府は1949年7月、「電信電話復興審議会」を設置し、電信電話の復旧・復興、改善に関する重要事項を調査・審議することとした。そして、経営主体を十分な自主性と機動性を兼ね備えた企業体に改め、最も能率的な運営を行う必要があるとの結論に達した。その結果、国家財政の枠を脱した拡充資金の調達を図り、合理的かつ企業的に経営することを理念として、電信電話事業は公共企業体として設立されることになった。こうして1952年7月31日、日本電信電話公社法が成立し、翌8月1日、日本電信電話公社(以下、電電公社)が発足した。
公社発足の直前、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復した。この頃には日本経済は戦後復興をほぼ完了し、昭和30年代の高度経済成長の前夜にあり、電話架設に対する社会の要望はきわめて熾烈なものとなっていた。公社は、発足の1年後に施行された公衆電気通信法に規定されているとおり、「迅速且つ確実な公衆電気通信役務を合理的な料金であまねく、且つ、公平に提供することを図ることによって、公共の福祉を増進する」ことを目的として、その後の四半世紀、電話の積滞解消と全国自動即時化という2大目標の達成に向けて歩んでいくこととなる。
1950年に実用化された4号自動式卓上電話機は、“ハイファイ電話機”と呼ばれるほど感度が高かった
1962年に登場した600形自動式卓上電話機。4号電話機の3倍以上も感度が高く、通話機能については完成形といえる電話機。プッシュホンの登場まで広く使われた
1979年、東京の利島、沖縄の南・北大東島を最後に電話の自動即時化が完了した。写真は利島に導入されたクロスバ自動交換機
1940年代の後半、電話加入は2年待ち、市外通話は特急でも申し込んでから1~2時間待ちが普通という状態。その状態を打開するために目指したのが「積滞解消」と「全国自動即時化」である。電電公社は発足の翌年、1953年に「第1次5カ年計画」を開始し、この目標達成に向けて新たな交換方式の検討を急ぐとともに、次代を担う交換技術への本格的な取り組みとして、国産クロスバ交換機の研究開発を開始した。クロスバ交換方式は、それまでのステップバイステップ方式に代わる次世代の主流と目されていた技術で、電電公社はアメリカで開発された「No.5クロスバ」を交換技術的な目標としていた。1958年、国産で最初のクロスバ市内自動交換機が東京の府中局と埼玉の蕨局で実用化され、その後さまざまな改良が加えられて急速に全国に普及していった。クロスバ交換方式の市外中継交換機は1959年に実用型が完成、最初に仙台局に設置され、1961年から市外中継交換機の標準形として順次全国の主要都市に設置された。これが大きな要因となって、1967年には日本の電話機数は約1,000万台に到達、全県庁所在地都市相互間の自動即時通話サービスも達成された。
70年代に入ると交換機の技術はさらに進化し、IC(集積回路)によって交換動作を制御する電子交換機が登場、大容量同軸ケーブルや大容量マイクロ波中継方式などの技術が次々に実用化されていった。その結果、1978年3月に積滞解消、翌年3月に全国自動即時化という2大目標が相次いで達成され、電電公社の長年の夢は実現した。