1890年(明治23年)12月16日、東京―横浜間で日本の電話事業はスタートした。写真は創業当時使われたベルギー製の単線式単式交換機。
加入者からの通話表示があると交換手はそのジャックにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジャックにもう一方のプラグを差し込んで接続していた。1979年の全国完全自動即時化まで、農村や山村の小局では使われていた
1890年、東京・辰の口の東京電話交換局に開設された、最初の電話交換室
1926年、自動式電話の使い方を周知させるポスター
日本の電信電話事業は、1869年(明治2年)12月、東京―横浜間で公衆電報の取り扱いが開始されたことに始まる。1890年1月に、東京―熱海間で公衆用市外電話の取り扱いが開始され、同年12月には東京―横浜間で電話交換業務が開始された。創業当初の加入者数は、東京155、横浜42であった。
アメリカで電話が発明されたのが1876年。その翌年、日本は世界に先駆けてこれを輸入しているが、それから電話事業創業まで13年もかかったのは、官営か民営かで議論を重ねていたためである。官営論を進めていたのは工部省、民営論を進めていたのは渋沢栄一をはじめとする実業家たちである。しかし1885年に工部省が廃止され、電信、郵便、灯台、海運などの業務をひとまとめにした逓信省が発足すると官営論が一気に加速し、1890年(明治23年)、電話事業は郵便事業とあわせて逓信省の所管となり、国営事業としてスタートすることに決定した。
東京―横浜間で始まった長距離電話は、その後、大阪、神戸、長崎へと徐々に距離を延ばしていったが、1923年(大正12年)、関東大震災が京浜地区を襲い、電話網にも多大な被害をもたらした。その復旧にあたって、それまで交換手が手動でつないでいた交換機を自動化させようという気運が盛り上がり、1926年、東京の京橋局に第1号の自動交換機が導入された。
日本の電話事業は順調に発展を続けていたが、やがて第2次世界大戦が勃発、その被害は甚大であった。戦争末期に108万台に達した電話加入者数は、終戦時には54万台に激減していた。
終戦から4年後の1949年6月1日、逓信省は電気通信省と郵政省に分離された。これは国鉄、日本専売公社の公共企業体への移行と同様にGHQ(連合国総司令部)の指示によるもので、電気通信事業の経営組織を行政機構から脱皮させようとするものであった。それまで郵政事業と一体で歩んできた電話事業は、独立した事業として復興の道を歩み始めることとなった。