1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

三井不動産株式会社 社長 江戸英雄

1963~1968年 日本初の超高層ビル

1960年代に人口と産業の都市への集中はピークを迎える。それは交通渋滞、通勤地獄、大気汚染、騒音、緑地やオープンスペースの減少など、多岐にわたって都市問題を生み出した。
こうしたなか、1963年7月に建築基準法が改正され、建築規制は従来の高さ制限によるものから容積率による規制へと移行していった。容積率とは敷地面積に対する建物の延床面積の割合で、容積率がクリアされていれば、小さな建築面積で階数の多い建物も建築可能となったのである。

つまりこの建築基準法の改正こそ、超高層ビル建設の法律的基盤を創出するものであった。その背景となったのが、耐震設計理論の変化である。関東大震災以来、日本では鉄骨と耐震壁による剛構造理論が耐震設計の基本となっていたが、この方法ではビルの高さは31mが限界とされていた。しかしこの頃、粘りの強い鉄骨を利用して地面からの振動を吸収する柔構造理論が確立され、その常識は覆されたのである。
高さ制限がなくなりビルのスペースが上へ伸びていけば、ビル周辺のオープンスペースが確保され、都市問題に配慮した都市再開発も進むことになる。
こうして超高層ビル建設の背景が整い、三井不動産は、いよいよ、霞が関ビル建設プロジェクトに着手することになった。その発端は、霞が関に東京倶楽部ビルを所有していた(株)東京倶楽部が、三井不動産に協力を求めてきたことに始まる。三井不動産は近隣の敷地と敷地統合の折衝を進め、その結果、容積率910%、地上36階建て、高さ147mという日本初の超高層ビルのプランがまとまった。

デッキプレート工法により工事中の霞が関ビル

デッキプレート工法により工事中の霞が関ビル

1965年3月、霞が関ビルは着工し、1968年4月に竣工した。何しろ日本では史上例のない高層建築である。地震、火災、風などに対する防災対策はもちろん、施工法なども従来の理論をそのまま当てはめることはできない。さまざまな分野の叡智を結集した新技術が導入され、日本の建築学会の金字塔ともいうべき建物が完成したのである。
霞が関ビルが三井不動産のビル事業を大きく発展させたことはいうまでもないが、それ以上に、このビルは日本中の関心を集め、マスコミでも大きく取り上げられた。それまで、例えば全国で飲まれたビールの量を示すような場合、丸ビル何杯分と例えられていたが、霞が関ビル完成後は、霞が関ビルにして何杯分という例が使われるようになったほどである。
三井不動産の知名度は、霞が関ビル建設を通じて一気に高まり、企業イメージも著しくアップした。

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IRマガジン2002年5-6月号 Vol.55 野村インベスター・リレーションズ

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