1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

三井不動産株式会社 社長 江戸英雄

1950~1962年 総合不動産会社としてのスタート

終戦後は、GHQの管理下に社会は一変する。財閥解体、地代家賃統制令、占領軍によるビルの接収、また預金封鎖や新円切換えなどという経済的混乱がひき起こされ、三井不動産の経営もきわめて苦しい状態にあった。1950年代に入って、ビル事業は戦後の混乱を脱して再起へ向かうが、まだ小さなビル会社であった三井不動産が所有する営業用建物は、1955年3月末の時点で9棟にすぎなかった。飛躍への一歩を踏み出すのは、同年11月、江戸英雄社長が就任してからである。

千葉県市原地区埋立地

京葉臨海工業地帯の開発協力の着手地、千葉県市原地区埋立地
(1961年竣工/丸囲み部分)

江戸社長は、それまでの低迷を打ち破るために積極的な経営方針を打ち出した。手持ちのビル用地が少ない「土地を持たざる不動産会社」であった三井不動産は、この時期、社運を賭して新規事業の展開を図り、ビル事業に加え、浚渫埋立事業と宅地造成事業への進出を決断した。この2つの新事業の背景には、1950年代なかばから始まった第1次高度成長がある。
民間企業の設備投資需要に応えるための臨海工業用地の開発と、所得が増加しつつあった人々の住宅地の開発という、近代化していく日本の社会的要請にいち早く応えようとしたものである。

千葉港中央地区埋立地

埋立事業は千葉港に新たな未来をも建設した(千葉港中央地区埋立地)

こうしてようやく総合不動産会社としての歩みを開始した三井不動産が大きく飛躍する契機となったのが、京葉臨海工業地帯埋立計画である。1957年、三井不動産は、千葉県の友納武人副知事から、京葉工業地帯建設の着手となる市原地区の埋立事業への参画を要請され、1958年4月、着工した。この工事は1961年7月に完工したが、これを契機に、三井不動産はその後も長期にわたって京葉工業地帯の開発に協力することとなった。
この間、ビル事業も本格化し、また宅地造成事業も順調に推移して、1962年度の営業収入は、1955年度の9億2,400万円から10倍以上も急伸して93億8,700万円となり、同業である三菱地所の88億8,727万円を凌駕して一躍業界トップとなった。

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IRマガジン2002年5-6月号 Vol.55 野村インベスター・リレーションズ

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