1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

三菱商事株式会社 創業者 岩崎彌太郎

1956~1986年 仲介役の終焉

三菱商事が復興を果たしてから2年後の1956年(昭和31年)、経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。1960年に発足した池田内閣は所得倍増計画を発表し、日本の高度経済成長が始まった。総合商社は、資源のない日本に資源をもたらし、日本の製品を海外の市場に運ぶというトレーダーとしての機能によって、いわば日本株式会社の購買部・販売部として日本の経済成長を促し、また同時に商社自身も発展していった。

三菱が払い下げを受けた1890年(明治23年)頃の丸の内と当時の地図

マクロ経済と三菱商事連結収益の推移
MC 基礎収益(連結)=営業利益(貸倒引当金繰入控除前)+利息収支+受取配当金+持分法による投資損益

三菱商事の連結収益を表すグラフは、この時期、日本の名目GDP、民間設備投資のグラフとほぼ重なって推移している。しかし、そうした二人三脚の歩みにも変化の時期が訪れる。70年代は、多少の上下幅がありながらもほぼ一致していた三菱商事の連結収益とGDPのグラフは、1982年に、突然乖離し始めた。高度経済成長を通して世界市場で躍進を遂げた日本企業は、海外との仲介役としての総合商社機能を必要とする段階を脱しようとしていたのだ。それを表すかのように、1986年には三菱商事の連結収益は急激に落ち込み、GDPの成長からは完全に取り残された。
しかし、1985年にニューヨークのプラザホテルで開催された先進国5カ国蔵相会議でプラザ合意が発表され、ドル安容認を契機に急速に円高が進み、内需拡大策とともに日本はバブル経済に突入する。この時期、民間設備投資は急速に拡大し、日本の多くの企業が業績を伸ばしたように、三菱商事の連結収益も1986年を底にいったん回復の兆しを見せた。
だが、その回復基調も、1991年のバブル経済の崩壊とともに終焉を迎える。日本の長期不況が始まり、日本の経済成長と同一歩調で歩んできた商社の役割は完全に終焉を迎えていた。商社には再生をかけた新たなコンセプトが必要だった。
三菱商事も、基礎収益が激しく落ち込んだ1986年以降、バブルの恩恵を享受し、ただ手をこまぬいていたわけではない。1990年代の三菱商事はバブル崩壊後の不良債権処理に追われ、収益は低迷を続けていたものの、振り返ってみると、再生へ向けた改革はバブル期以前にすでに始まっていたといえる。そのスタートは、プラザ合意の翌年1986年に、当時の近藤健男社長が経営革新のための具体的プランをまとめた「Kプラン」だった。会社そのものの存在意義を問いただすかのようなこの改革が、収益として成果を表すのはもう少し先のことになるのだが・・・。

board

IRマガジン2004年新春号 Vol.64 野村インベスター・リレーションズ

  1. 前へ
  2. 1
  3. 2
  4. 3
  5. 4
  6. 5
  7. 6
  8. 次へ

目次へ