総合商社は、知られているように日本独自の企業形態である。日本は総合商社を必要とし、総合商社は日本の成長とともに歩んできた。果たして、総合商社の機能とは何なのだろうか。
ここで、三菱商事の歩みをざっと振り返ってみよう。起源は、1871年(明治4年)にさかのぼる。この年、土佐藩の大阪藩邸の上席者であった岩崎彌太郎が、土佐藩から分離して海運業を始めた九十九商会の経営を引き受けることとなった。これが三菱の創業である。九十九商会は船旗号として使用していた三角菱のマークにちなんで1873年に三菱商会と改称。1875年には政府の海運振興策の助成を受けることとなり、これを機に郵便汽船三菱会社と改称し、日本有数の海運会社として発展していった。しかし、政府の支援で新たに設立された共同運輸会社との間に激しい競争が起こり、両者共倒れを懸念した政府の方針により、1885年、三菱は共同運輸会社との合併を余儀なくされた。こうして両社が合併して日本郵船会社が創設され、郵便汽船三菱会社は閉鎖、三菱は海運業を失うことになった。翌1886年、彌太郎のあとを継いだ弟岩崎彌之助が新たに三菱社を設立、石炭・金属鉱山・造船・銀行業を中心にして三菱の再興を図った。1893年、旧商法が一部修正のうえ施行され三菱合資会社に改組し、1899年には営業部を設置した。営業部は一度廃止されるが、1911年に復活、これが後に三菱商事へと発展していくことになる。1902年には、三菱合資として初めての海外拠点となる漢口出張所が開設された。これを皮切りに、上海、香港、北京、ロンドン、ニューヨークに次々と海外拠点が設置され、三菱商事誕生の条件が整えられていった。
三菱が払い下げを受けた1890年(明治23年)頃の丸の内と当時の地図
三菱合資漢口支店(1909年落成)
三菱合資は、事業の発展とともに基幹部門の分離独立を開始、1917年(大正6年)に三菱造船(株)、三菱製鉄(株)を、続いて三菱鉱業、三菱銀行を独立させ、1918年に営業部の一切の事業を分離して、三菱商事(株)として独立させた。三菱商事は日本の生産品の輸出や、海外からの生産品・資源の輸入、最新の工業技術の日本への導入などを通じて発展していったが、第2次世界大戦後の1947年(昭和22年)、GHQの財閥解体によって解散、1954年に再興を果たし、現在の三菱商事が発足した。
総合商社は、生産者と消費者を仲介するものとして誕生したが、鎖国が終わり明治が始まって日本が工業化の道へ向かい始めた頃から、日本と海外との仲介役として機能するようになる。三菱商事も創立以来こうした役割を果たしながら発展してきたが、戦後、日本の経済発展とともに、その機能は日本の大半の企業にとっても、ますます重要なものとなっていった。