創立から9年目の1925年、近代設備を持つ川崎工場が稼動を開始した。翌1926年、ドイツに発注していたチョコレート製造機械の据え付けが完了し、同国から製造技師のキャスパリ氏を招いて、本格的にチョコレートの製造を開始。同年9月13日、現在までロングセラーを続ける「ミルクチョコレート」を発売した。こうして日本のチョコレート工業発展の口火は切られ、「チョコレートは明治」の基盤が築かれたのである。
板チョコ3商品のキャンペーンは「チョコレートは明治」のCMソングで、明治チョコレートのイメージづくりを図った
その後、第2次世界大戦によって、ほとんどの菓子類とともにチョコレートの製造は中断したが、1951年に「ミルクチョコレート」が復活、戦後最初の国産チョコレートとして発売された。そして昭和30年代、明治チョコレートは大きな躍進を遂げる。昭和40年までの10年間で、菓子全体の売り上げは約2倍に伸びたが、チョコレートは約7倍と大幅に伸び、明治チョコレートのシェアは38%に達してトップメーカーの地位を築き上げた。
この時期の躍進は、まず、1957年発売の「ミルクチョコレートデラックス」に始まる。それまで薄型だった板チョコは、この商品から厚型に切り替えられた。黄色を基調としたパッケージは、当時一般的だったチョコレート色の包装紙を打破した画期的なもので、これ以降、チョコレートはカラフルなパッケージが主流となった。
続いて、「問題のJpいよいよ発売」というテレビの予告広告で話題になった1959年発売の「Jpチョコレート」。これはチョコレートのなかにクリームなどを封入した新しいスタイルの商品で、デンマークから技術導入したヤンセン・プラント(Jaensen Plant)の頭文字を取ったものである。この商品はブームを巻き起こして話題となり、1963年には年間22億円の売り上げを記録した。
そして、爆発的ヒットとなった1961年発売の「マーブルチョコレート」。おまけの鉄腕アトムシールや上原ゆかりのテレビコマーシャルなどが話題となり、1963年には58億円という空前の売り上げを記録した。