御用醤油醸造所
野田醤油では、1936年にキッコーマン・ソースを製品化。経営危機に瀕したヒゲタ印の銚子醤油の再建も担った。
1939年には、紀元2600年記念事業として宮内省御用達の御用醤油醸造所(通称「御用蔵」)を建設した。長引く不況に加えて戦時色が強まるなかで「醤油の質を落としてでも量を確保せよ」という声に抗し、御用蔵では、伝統の醸造技術で醤油が製造された。もちろん、市場に出す製品の品質も大切にしたので、「亀甲萬」の配給時には長い行列ができたという。
しかし、国内では原料不足がさらに深刻化していった。そうしたなか、野田醤油では、製品の歩留まり向上を図った。また、舘野正淳、梅田勇雄らが、南方から入ってくるコプラミール(ココヤシの果肉を搾油した滓)で麹をつくり、醤油の搾り滓を再活用して醤油を醸造する「新式醤油」の開発に成功した。当時普及していた化学合成のアミノ酸醤油よりも風味に優れたこの新式醤油の醸造法も、時を経ずして業界に公開された。
1945年、戦火はおさまったものの原料不足は続き、GHQでは「主食として日本に供している貴重な大豆を、歩留まりの劣る醸造醤油用には回せない」という理由で、多くをアミノ酸醤油業者に回そうという動きが出てきた。そこで、再び舘野らが研究を重ね、短期間醸造とアミノ酸醤油並みの高歩留まりを実現した「新式二号醤油」の醸造法を完成した。この時、常務になっていた二代茂木啓三郎は、窮地に立つ醤油醸造業界の要請に応えて、特許を独占することなくその醸造法を公開したのである。
醸造醤油の理解者であったGHQ経済科学局のアップルトン女史は「生活に関わりの深い醤油の問題は日本人が決めればいい」という立場だったが、この新醸造法の成果を見て、醤油醸造業界に原料を回す決定をくだした。(従来、アップルトンが醸造醤油を追い詰めたとする説が流布されていたが、茂木啓三郎翁遺稿集『照干一隅』を監修した佐藤良也氏は、むしろ理解者だったと否定している)
「新式二号醤油」の発明は、日本発明協会の最高賞・恩賜発明賞を受賞した。その後も、野田醤油では、木綿に代わるビニロン瀘布の実用化、新麹菌の発見などの技術革新が続いた。画期的なのは1955年の舘野らによる「N.K式蛋白質原料処理法」の開発である。従来は蒸した大豆を自然冷却していたものを回転羽式冷却とし、これに、即日蒸煮、即日盛込、回転式蒸煮缶、真空冷却などの要素技術を集大成したものが「N.K式蛋白質原料処理法」で、醤油の完全なる工業製品化を実現するものであった。この足かけ8年にもわたる研究成果も、前例と同様に特許公開された。まさに、「業界とともに栄える」産業魂の発露であった。