1. 先駆者たちの大地

先駆者たちの大地

キッコーマン中興の祖 二代茂木啓三郎

1927~1935年 大争議を経て生まれた『産業魂』

1927年2月、西日本で金融恐慌が発生した。3月には東京に波及して株式市場が大暴落、休業する銀行も相次いだ。そうしたなか、新生野田醤油では、待遇改善要求に端を発した問題が、労働運動史上空前の大争議に広がっていった。会社は臨時工員を大量に雇って事業を継続し、組合側も抵抗を続けたため、紛争は実に翌年春まで218日におよんだのである。逮捕者も出るきわめて不幸なできごとではあったが、この争議によって旧弊が一掃されたともいえよう。
争議の解決覚書調印にのぞむ経営側の末席に飯田勝治の姿があった。後に社長に就任し、キッコーマンを世界のブランドに発展させることになる二代茂木啓三郎である。

飯田勝治は、明治32年(1889年)に九十九里浜に近い千葉県富浦村(現・旭市)の素封家に生まれた。成東中学(現・成東高)から東京商大(現・一橋大学)に進み、産業革命史の権威だった上田貞次郎教授のゼミに入った。『議論に走らず、実際に泥まず』、理論と実際の融合を説く上田の勧めで、1926年に野田醤油に入社した。労使問題で揺れる当時の工場について、彼は、後年、『私の履歴書』(日本経済新聞連載)の中で、「ボヤが起きても従業員が消火に協力しないほどモラルが低下していた。形ばかり会社になっても、経営に責任と哲理が欠け、労働に自覚と信条なし」という趣旨のことを語っている。この改善に向けて、九代茂木佐平治常務(後に第三代社長)のもとで、「争議は争議、営業は営業」と割り切って働いた。

争議解決覚書調印

争議解決覚書調印
(右後列右から4人目が飯田勝次)

争議が解決し1928年、七郎右衛門社長は、社是として『産業魂』を制定した。「経営の目的は国家の隆昌、国民の幸福増進。人間と人間との互助・相愛の確立が経営の根本」というのが骨子だが、これを具申したのが飯田であった。
そして、1929年、争議終結を見届けて七郎右衛門社長が逝去。第二代社長に十一代茂木七左衞門が就いた。飯田は、この年結婚して、初代茂木啓三郎の養子に入り、1935年に茂木啓三郎家を継承した。
初代啓三郎は、若き日に勝海舟の家に寄遇したこともあるほどの進取の精神に富んだ人で、分家して市川市行徳の工場を譲渡され、ボイラー、もろみの圧搾機械などの新設備・新技術を積極的に導入した。そして、その技術を惜しみなく業界に公開した。後年、事業化したばかりの味の素に販売ルート開拓の協力を頼まれた時も、無償で協力している。まさに、『産業魂』の実践者であった。

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IRマガジン1999年6-7月号 Vol.38 野村インベスター・リレーションズ

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